戦後の日本画、なかでも風景画に新境地を開いた東山魁夷 ひがしやまかいい(1908〜1999年)。彼は徹底した自然観察をもとに、内面的深さを感じさせる静謐 せいひつ な風景を生涯描き続けました。本展では、画家の代表作である《道》(1950年)や《緑響く》(1982年)にくわえ、ヨーロッパや京都の古都の面影を描いた風景画など、約80件にのぼる名品の数々を通して、「国民画家」と呼ばれた東山魁夷の画業の全貌をたどります。
本展のハイライトは、東山魁夷の最高傑作で、構想から完成までに10年を要した、奈良・唐招提寺御影堂 とうしょうだいじみえいどう の障壁画 しょうへきが(襖絵 ふすまえ 全68面と床の間の絵)です。総延長76mにも及ぶこの大画面には、奈良・唐招提寺の開祖となった唐の高僧・鑑真 がんじん 和上のふるさと中国と、鑑真がさまざまな苦難の末にたどり着いた日本の風景が描かれています。御影堂(1649年建立の寝殿造 しんでんづくり。重要文化財)の障壁画は、毎年数日間のみ公開されてきましたが、このたびの御影堂修理により今後数年間は唐招提寺でも見られません。本展では、御影堂内部をほぼそのままに再現するため、この東山魁夷の記念碑的大作を間近に見ることができる、まことに貴重な機会です。ぜひご覧ください。
前期 = 7月16日(土)〜8月7日(日)・後期 = 8月9日(火)〜8月28日(日)
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横浜に生まれ、神戸で育った東山魁夷は、東京美術学校の一年生の時に、友人と木曽路を旅し、御嶽山に登り、山の厳しさや人々の優しさに触れました。卒業後、留学したドイツでは西洋美術史を学びます。帰国後も経済的な困窮、相次いだ家族の死など、数々の苦難に直面しながら、自らの絵画の方向性を模索しました。
終戦直前、軍事訓練中の東山は熊本城天守閣跡から遠く阿蘇を望み、その美しさに深い感動を覚えます。再び絵筆を握れるようになった終戦直後に見た、千葉県鹿野山山頂からの風景に触発された《残照》は政府買い上げとなり、戦後東山芸術の新たな出発点となりました。活躍の場が広がり、多忙な日々を送るようになった東山は、新鮮な環境に身をおくため北欧に赴き、その厳しい自然に強い親近感を覚えたといいます。
東山は、自然の風景だけでなく、人間が作り上げた都市の風景も多数描きました。平安時代以降日本の美と伝統を色濃く残してきた京都の町の景色が経済発展に伴って変わろうとする頃に取材を重ね、また戦前の留学時代と変わらぬ様子を見せるドイツの町の面影にも東山はそのまなざしを向けました。こうして高い評価を受けた、日本の古都・京都とドイツ・オーストリアの古都を描く二つの連作が生まれました。
戒律を伝えるため、六度目の渡航でようやく日本に到着した鑑真 がんじん 和上の生前の姿とされる鑑真和上坐像(国宝)を奉安する唐招提寺御影堂(重要文化財)の障壁画( 床の間の絵及び襖絵 ふすまえ 全68面 )を、東山は二期に分けて描きました。総延長76mに及ぶ大画面のうち、第一期(1975年完成)では、鑑真が見ることのできなかったわか国の海と山の風景を抑えた色調で描きました。また第二期(1980年完成)では、鑑真の故郷である中国の山水にふさわしいと考えた、中国生まれの水墨技法で描きました。
70歳を過ぎ、唐招提寺御影堂障壁画を完成させた東山は、海外における自らの回顧展の記念講演会で日本の文化と芸術を積極的に紹介しました。第二期御影堂障壁画の制作にあたって、中国生まれの水墨画技法を選択しました。その後の絵画作品には以前にもまして明るい色の絵の具や、金箔及びプラチナの砂子が積極的に用いられるようになり、装飾性も強まっていきました。絶筆《夕星》は、自身が見た夢の風景を描いたものだと東山は語っています。
1908(明治41年) | 東山浩介、くにの次男として横浜に生まれる。本名新吉。 |
1911(明治44年) | 一家で神戸市に転居。 |
1926(大正15年) | 4月、東京美術学校日本画科入学。 |
1929(昭和4年) | 兄国三死去。10月、帝展に初出品した《山国の秋》で、初入選。 |
1931(昭和6年) | 東京美術学校卒業。同校研究科に入学。 |
1933(昭和8年) | 研究科を修了、ドイツに渡航。 |
1934(昭和9年) | ヨーロッパ一巡の旅。日独交換学生に選ばれ、西洋美術史を学ぶ。 |
1935(昭和10年) | 父浩介病気のため、留学を中断し、帰国。 |
1940(昭和15年) | 川崎小虎の長女すみと結婚。 |
1942(昭和17年) | 父浩介死去。 |
1945(昭和20年) | 招集され、熊本で対戦車攻撃訓練を受ける。母くに死去。 |
1946(昭和21年) | 弟泰介死去。 |
1947(昭和22年) | 第三回日展で《残照》が特選、政府買い上げとなる。 |
1950(昭和25年) | 第六回日展に《道》を出品。 |
1960(昭和35年) | 東宮御所の壁画《日月四季図》完成。 |
1962(昭和37年) | 夫婦で、北欧の旅。 |
1968(昭和43年) | 皇居新宮殿の大壁画完成。「京洛四季」を発表する。 |
1969(昭和44年) | 夫妻で、ドイツ・オーストリアの古都を巡る。文化功労者となる。 |
1975(昭和50年) | 唐招提寺御影堂第一期障壁画《山雲》《濤声》完成、奉納。 |
1980(昭和55年) | 同寺第二期障壁画《黄山暁雲》《揚州薫風》《桂林月宵》完成、奉納。 |
1981(昭和56年) | 東京国立近代美術館で「東山魁夷展」開催。 |
1995(平成7年) | 長野県信濃美術館 東山魁夷館ほかで、「米寿記念 東山魁夷展」開催。 |
1999(平成11年) | 死去。 |