東山魁夷自然と人、そして町

会 期:

7月16日(土)〜8月28日(日)

休館日:

毎週月曜日 *ただし、7月18日(月・祝)・8月15日(月)は開館、7月19日(火)は休館

観覧料:

一 般 1,600円(1,400円)

高大生 1,000円(800円)

小中生 600円(400円)

*( )内は前売りおよび団体料金(有料の方が20名以上の場合)。
*上記料金で九州国立博物館4階「文化交流展(平常展)」もご観覧いただけます。
*障がい者手帳等をご持参の方とその介護者1名は無料です。展示室入口にて障がい者手帳等(*)をご提示ください。
(*)身体障害者手帳、療育手帳、精神障害者保健福祉手帳、戦傷病者手帳、被爆者健康手帳、特定疾患医療受給者証
*満65歳以上の方は前売り一般料金でご購入いただけます。券売所にて生年月日がわかるもの(健康保険証・運転免許証等)をご提示ください。
*キャンパスメンバーズの方は団体料金でご購入いただけます。券売所にて学生証、教職員証等をご提示ください。
*チケット販売窓口では下記電子マネーがご利用いただけます。
注)ご利用いただけるのは当日券のみです。団体券・割引券等にはご利用になれません。
電子マネー
(WAON、nanaco、iD、Edy、Kitaca、Suica、PASMO、TOICA、manaca、ICOCA、nimoca、はやかけん、SUGOCA)
電子マネーアイコン

特別展紹介動画 68秒

お問い合わせ:

050-5542-8600(NTTハローダイヤル 午前8時〜午後10時/年中無休)

主催:
九州国立博物館・福岡県、西日本新聞社、TVQ九州放送、日本経済新聞社
共催:
(公財)九州国立博物館振興財団
特別協賛:
ダイワハウス
助成:
(公財)福岡文化財団
特別協力:
唐招提寺  太宰府天満宮
協力:
東京国立近代美術館、長野県信濃美術館 東山魁夷館
後援:
佐賀県、長崎県、熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県、沖縄県、九州・沖縄各県教育委員会、福岡市、福岡市教育委員会、北九州市、北九州市教育委員会、太宰府市、太宰府市教育委員会、西日本リビング新聞社、FMFUKUOKA、crossfm、LOVEFM、西日本鉄道、九州旅客鉄道、日本自動車連盟福岡支部、NEXCO西日本九州支社、福岡県タクシー協会、福岡市タクシー協会、福岡商工会議所、太宰府市商工会、太宰府観光協会、一般社団法人日本旅行業協会、西日本文化サークル連合、西日本新聞TNC文化サークル

ごあいさつ

戦後の日本画、なかでも風景画に新境地を開いた東山魁夷 ひがしやまかいい(1908〜1999年)。彼は徹底した自然観察をもとに、内面的深さを感じさせる静謐 せいひつ な風景を生涯描き続けました。本展では、画家の代表作である《道》(1950年)や《緑響く》(1982年)にくわえ、ヨーロッパや京都の古都の面影を描いた風景画など、約80件にのぼる名品の数々を通して、「国民画家」と呼ばれた東山魁夷の画業の全貌をたどります。
本展のハイライトは、東山魁夷の最高傑作で、構想から完成までに10年を要した、奈良・唐招提寺御影堂 とうしょうだいじみえいどう の障壁画 しょうへきが(襖絵 ふすまえ 全68面と床の間の絵)です。総延長76mにも及ぶこの大画面には、奈良・唐招提寺の開祖となった唐の高僧・鑑真 がんじん 和上のふるさと中国と、鑑真がさまざまな苦難の末にたどり着いた日本の風景が描かれています。御影堂(1649年建立の寝殿造 しんでんづくり。重要文化財)の障壁画は、毎年数日間のみ公開されてきましたが、このたびの御影堂修理により今後数年間は唐招提寺でも見られません。本展では、御影堂内部をほぼそのままに再現するため、この東山魁夷の記念碑的大作を間近に見ることができる、まことに貴重な機会です。ぜひご覧ください。


展覧会構成

本展では、大規模な展示替えを行います。前期 = 7月16日(土)〜8月7日(日)・後期 = 8月9日(火)〜8月28日(日) 詳しくは 出品目録 でご確認ください。

I 模索の時代(戦前)

解説を読む

横浜に生まれ、神戸で育った東山魁夷は、東京美術学校の一年生の時に、友人と木曽路を旅し、御嶽山に登り、山の厳しさや人々の優しさに触れました。卒業後、留学したドイツでは西洋美術史を学びます。帰国後も経済的な困窮、相次いだ家族の死など、数々の苦難に直面しながら、自らの絵画の方向性を模索しました。

主な作品

秋の農村風景


山国の秋(試作)

《山国の秋(試作)》 やまぐにのあき しさく

昭和3年(1928)
武陽会(兵庫県立美術館寄託)
後期


II 自然との対話 日本と北欧の風景

解説を読む

終戦直前、軍事訓練中の東山は熊本城天守閣跡から遠く阿蘇を望み、その美しさに深い感動を覚えます。再び絵筆を握れるようになった終戦直後に見た、千葉県鹿野山山頂からの風景に触発された《残照》は政府買い上げとなり、戦後東山芸術の新たな出発点となりました。活躍の場が広がり、多忙な日々を送るようになった東山は、新鮮な環境に身をおくため北欧に赴き、その厳しい自然に強い親近感を覚えたといいます。

主な作品

東山芸術の出発点


残照

《残照》 ざんしょう

昭和22年(1947)
東京国立近代美術館所蔵
通期

戦後日本絵画の金字塔


道

《道》 みち

昭和25年(1950)
東京国立近代美術館所蔵
通期

神秘の倒影


《映象》

《映象》 えいしょう

昭和37年(1962)
東京国立近代美術館所蔵
通期

風景を通した体験と「道」

風景によって心の眼が開けた体験を、私は戦争の最中に得た。自己の生命の火が間もなく確実に消えるであろうと自覚せざるを得ない状況の中で、初めて自然の風景が、充実した命あるものとして眼に映った。強い感動を受けた。それ迄の私だったら、見向きもしない平凡な風景ではあったが──
また、戦争直後、全てが貧しい時代に、私自身も、どん底にいたのだが、冬枯れの寂寞とした山の上で、自然と自己との繋り、緊密な充足感に目覚めた。切実で純粋な祈りが心に在った。
風景画家として私が出発したのは、このような地点からであった。その後に描いた「道」にしても、ただ、画面の中央を一本の道が通り、両側にくさむらがあるだけの、全く単純な構図で、どこにでもある風景である。しかし、そのために中に籠めた私の思い、この作品の象徴する世界が、かえって多くの人の心に通うものらしい。誰もが自分が歩いた道としての感慨をもって見てくれるのである。
「一枚の葉」『日本の美を求めて』東山魁夷著、講談社学術文庫、1976年

III 古都の佇まい 京都とドイツ・オーストリア紀行

解説を読む

東山は、自然の風景だけでなく、人間が作り上げた都市の風景も多数描きました。平安時代以降日本の美と伝統を色濃く残してきた京都の町の景色が経済発展に伴って変わろうとする頃に取材を重ね、また戦前の留学時代と変わらぬ様子を見せるドイツの町の面影にも東山はそのまなざしを向けました。こうして高い評価を受けた、日本の古都・京都とドイツ・オーストリアの古都を描く二つの連作が生まれました。

主な作品

月下の竹林


《月篁》

《月篁》げっこう(京洛四季)けいらくしき

昭和42年(1967)
東京国立近代美術館所蔵
通期

1537年に建てられた家


《窓》

《窓》 まど

昭和46年(1971)
長野県信濃美術館 東山魁夷館所蔵
通期


IV 唐招提寺御影堂障壁画 東山魁夷の画業の集大成

解説を読む

戒律を伝えるため、六度目の渡航でようやく日本に到着した鑑真 がんじん 和上の生前の姿とされる鑑真和上坐像(国宝)を奉安する唐招提寺御影堂(重要文化財)の障壁画( 床の間の絵及び襖絵 ふすまえ 全68面 )を、東山は二期に分けて描きました。総延長76mに及ぶ大画面のうち、第一期(1975年完成)では、鑑真が見ることのできなかったわか国の海と山の風景を抑えた色調で描きました。また第二期(1980年完成)では、鑑真の故郷である中国の山水にふさわしいと考えた、中国生まれの水墨技法で描きました。

主な作品

日本の海 静と動


《濤声》(部分)

《濤声》とうせい(部分)ぶぶん

昭和50年(1975)
唐招提寺所蔵
通期

風にそよぐ柳


《揚州薫風》(部分)

《揚州薫風》ようしゅうくんぷう(部分)ぶぶん

昭和55年(1980)
唐招提寺所蔵
通期

御影堂について

国宝鑑真和上坐像を奉安する御影堂は、唐招提寺境内の北側にあり、土塀で囲まれている。もとは、興福寺一乗院に建てられた江戸時代の寝殿造の建物で、昭和39年(1964)に現在地に移築された。平成27年度より始められた解体修理作業は今後数年間かかるものと見込まれている。

展示室内風景


V 終わりのない道

解説を読む

70歳を過ぎ、唐招提寺御影堂障壁画を完成させた東山は、海外における自らの回顧展の記念講演会で日本の文化と芸術を積極的に紹介しました。第二期御影堂障壁画の制作にあたって、中国生まれの水墨画技法を選択しました。その後の絵画作品には以前にもまして明るい色の絵の具や、金箔及びプラチナの砂子が積極的に用いられるようになり、装飾性も強まっていきました。絶筆《夕星》は、自身が見た夢の風景を描いたものだと東山は語っています。

主な作品

紅葉と滝のハーモニー


《溪音》

《溪音》 けいおん

昭和61年(1986)
東京藝術大学所蔵
通期

パリ郊外・ソー公園


《静唱》

《静唱》 せいしょう

昭和56年(1981)
長野県信濃美術館 東山魁夷館
後期

夢の風景(絶筆)


《夕星》

《夕星》 ゆうぼし

平成11年(1999)
長野県信濃美術館 東山魁夷館所蔵
通期

東山魁夷という雅号

学校を卒業する時に「魁夷」という号をつけました。「東山」は生まれつきの名前で、なんとなく日本的なやさしい感じです。それは私の生来の性格でもあるのですが、芸術はなかなかやさしさだけでやっていける問題ではないという自覚も出はじめて、山国などに行って厳しさを追求している時代ですので「東山」の後へ優しい感じの雅号をつけると骨がなくなってしまうような気がして、思い切り反対の雅号をと考えて「魁夷」とつけたんです。「槐 えんじゅ 」という字が好きなのですが、大正時代に早くなくなった画家の村山槐多 かいた(本名)」の字をまねするのも具合が悪いと思い、「魁 さきがけ」という字を選びました。
また、「東山」が非常に字画の少ない字ですので、そこへ「魁」という画数の多い、ごつい感じの字を持ってくると、次の字は下が開いていないとバランスが悪いので、「夷」という字を持ってきたのです。そしてまた、「東山」は音が長いですから、名前は簡潔に三音ぐらいで読み切る方がいいと思って「魁夷 かいい」とつけました。結局、「東山」というやさしさと「魁夷」という厳しさと、その二つのミックスが自分にとっては必要だと考えたのではないかと思ます。
「芸術と私」『美と遍歴東山魁夷座談集』芸術新聞社1997年

東山魁夷 略年譜

1908(明治41年)東山浩介、くにの次男として横浜に生まれる。本名新吉。
1911(明治44年)一家で神戸市に転居。
1926(大正15年)4月、東京美術学校日本画科入学。
1929(昭和4年)兄国三死去。10月、帝展に初出品した《山国の秋》で、初入選。
1931(昭和6年)東京美術学校卒業。同校研究科に入学。
1933(昭和8年)研究科を修了、ドイツに渡航。
1934(昭和9年)ヨーロッパ一巡の旅。日独交換学生に選ばれ、西洋美術史を学ぶ。
1935(昭和10年)父浩介病気のため、留学を中断し、帰国。
1940(昭和15年)川崎小虎の長女すみと結婚。
1942(昭和17年)父浩介死去。
1945(昭和20年)招集され、熊本で対戦車攻撃訓練を受ける。母くに死去。
1946(昭和21年)弟泰介死去。
1947(昭和22年)第三回日展で《残照》が特選、政府買い上げとなる。
1950(昭和25年)第六回日展に《道》を出品。
1960(昭和35年)東宮御所の壁画《日月四季図》完成。
1962(昭和37年)夫婦で、北欧の旅。
1968(昭和43年)皇居新宮殿の大壁画完成。「京洛四季」を発表する。
1969(昭和44年)夫妻で、ドイツ・オーストリアの古都を巡る。文化功労者となる。
1975(昭和50年)唐招提寺御影堂第一期障壁画《山雲》《濤声》完成、奉納。
1980(昭和55年)同寺第二期障壁画《黄山暁雲》《揚州薫風》《桂林月宵》完成、奉納。
1981(昭和56年)東京国立近代美術館で「東山魁夷展」開催。
1995(平成7年)長野県信濃美術館 東山魁夷館ほかで、「米寿記念 東山魁夷展」開催。
1999(平成11年)死去。