ドイツに生まれ、スイスに移住したエミール・ゲオルク・ビュールレ(1890 - 1956)は、戦前から戦後にかけて実業家として富を築く一方、生涯を通じて美術品の収集に情熱を注ぎました。ビュールレは1937年にスイス国籍を得て、一家とともに移り住んだチューリヒの邸宅を飾るため、美術品の購入をはじめます。時にはレンブラントやファン・ゴッホの贋作を購入してしまうなどの失敗もありながら、信頼のおける画商たちとの出会いを経て、自身のコレクションを増やしていきました。やがてビュールレ・コレクションは、フランスの印象派とポスト印象派を中心に、それらの作品への理解を深めるものとして17世紀のオランダ派や16世紀から18世紀のヴェネツィア派の絵画やゴシック式彫刻などの古典作品から、ナビ派、フォーヴィスム、キュビスム、1900年以降のフランス前衛絵画までを揃え、世界を代表するプライベート・コレクションの一つとなりました。
名作揃いのビュールレ・コレクションですが、これまでヨーロッパ以外へ所蔵品がまとまって貸し出されたことはほとんどなく、日本で紹介されたのは、ビュールレ氏の生誕100年を記念し、1990年から1991年にワシントン、モントリオール、横浜、ロンドンで開催された世界巡回展の1回限りでした。これまでは、ビュールレが作品を保管していた邸宅の別棟を改装した美術館で、この優れたコレクションを鑑賞することができましたが、その美術館は2015年に閉館され、今回27年ぶりに日本でコレクション展が実現することになりました。2020年にビュールレ・コレクションの所蔵作品は一括して、チューリヒ美術館に管理が移ることが決まっており、今回の展覧会は日本でコレクションの全貌を見ることができる最後の貴重な機会となります。印象派の作品を中心に64点の名作が揃った「至上の印象派展ビュールレ・コレクション」をご堪能ください。
日本はフランス印象派の作品の収集と展示において、長く豊かな歴史を有しています。それゆえ、E.G.ビュールレ・コレクション財団は、世界で最も優れたフランス印象派絵画のプライベート・コレクションであるビュールレ・コレクションを日本でご紹介できることを、誇りに思うと同時に、大変喜ばしく思っております。本コレクションは、スイスの実業家であるエミール・ゲオルク・ビュールレが、1937年から1956年にかけて収集したものです。ピエール=オーギュスト・ルノワールの《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢(可愛いイレーヌ)》や、ポール・セザンヌの《赤いチョッキの少年》などの貴重な作品が当時はまだ入手可能であり、これらの傑作を得たことにより、ビュールレは近代ヨーロッパ絵画の最高傑作を所蔵するコレクターとなりました。
ビュールレは大学生の頃からヨーロッパ美術の歴史に大きな興味を寄せ、やがてコレクターとなりました。E.G.ビュールレ・コレクション財団は、ビュールレ・コレクションの個性が感じられるような作品の数々を日本の皆様にご覧いただけることを大変楽しみにしております。そして、美術に造詣の深い日本の皆様が、西洋美術を有するプライベート・コレクションの中でも、特別な存在感を示すビュールレ・コレクションの素晴らしさをご堪能いただけるものと確信しております。
E.G.ビュールレ・コレクション財団館長
ルーカス・グルーア
ビュールレ・コレクションと同様、世界有数のプライベート・コレクションといえば、同じくスイスにあるオスカー・ラインハルトのコレクションがあげられます。ラインハルトは貿易商の実業家で、コレクションには18世紀から20世紀のドイツ、オーストリア、スイスの絵画や彫刻、15世紀から20世紀の版画や素描画など、あわせて7,500点余りがあります。また、アメリカにはバーンズ・コレクション(医薬品の開発で成功をおさめたアルバート・C.バーンズ氏によって集められた近代絵画を中心とするおよそ2,500点のコレクション)や、フリック・コレクション(石炭・鉄鋼業で巨富を成したヘンリー・クレイ・フリック氏のルネッサンス期から19世紀後半までの絵画・彫刻など1,100点以上をかぞえるコレクション)などがあります。
今回の展覧会には、作品も作家名も、どこかで見たことのある、聞いたことのある作品ばかりが揃います。きっと「この絵はビュールレが持っていたのか!」と驚く作品が数多く登場することでしょう。ドラクロワ(1798 - 1863)、ドガ(1834 - 1917)、マネ(1832 - 1883)、ルノワール(1841 - 1919)、ファン・ゴッホ(1853 - 1890)、ゴーギャン(1848 - 1903)、モネ(1840 - 1926)、セザンヌ(1839 - 1906)、マティス(1869 - 1954)、ピカソ(1881 - 1973) … あまりにも豪華すぎる作家たちがこの展覧会で競演します。なかでも、傑作中の傑作が揃うビュールレ・コレクションの印象派・ポスト印象派の作品は、その質の高さゆえ世界中の美術ファンから注目されています。絵画史上、最も有名な少女ともいわれるルノワールの《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢(可愛いイレーヌ)》とセザンヌの《赤いチョッキの少年》の2点は両巨匠の「最高傑作」として知られ、この2点だけでも十分に価値のあるコレクションといえます。
写真撮影OK
ピエール=オーギュスト・ルノワール裕福な銀行家のルイ・カーン・ダンヴェール伯爵の長女、イレーヌを描いた作品。当時8歳であったイレーヌの栗色の豊かな髪やあどけない表情が、背景に描かれた深い緑の茂みによって引き立てられています。ルノワールによる子どもの肖像画の代表作のひとつである本作品は、1881年のサロンに出展され好評を博しました。
ポール・セザンヌ
セザンヌの肖像画のなかでも、もっとも有名な作品です。肘をつき、物思いにふける少年。頭を支える腕の直線や、背中や手前に長く引き伸ばされた腕の曲線が、カーテンやテーブルクロスの斜めの線と絶妙な均衡を保っています。画面周辺の沈んだ色調に囲まれ、少年の顔と赤いチョッキ、右腕を包むシャツの白さが際立っています。
フィンセント・ファン・ゴッホ
1888年にパリからアルルに居を移したファン・ゴッホは、ジャン=フランソワ・ミレーの同名の作品から想を得て、油彩や素描で繰り返しこの主題に取り組みました。浮世絵からの影響が明確に示された本作品では、画家は画面の上下を断ち切り、樹木と対比させることで、鑑賞者の視線を人物に引き付けています。
名作への期待に胸膨らませて会場を訪れた来館者を先ずお迎えするのは、肖像画の数々です。17世紀のオランダを代表する画家フランス・ハルスの傑作、《男の肖像》にはじまり、フランス古典主義の完成者アングルが愛情を込めて描き出した妻の肖像、さらには友人シスレーをモデルにルノワールが描いた若き日の半身像など、各時代を彩る名人たちの筆による個性豊かな肖像画が並びます。これらの作品により、西欧絵画200年の伝統とその表現の推移、さらにビュールレ・コレクションの広がりと厚みを体感することができます。
アングルの妻、マドレーヌを描いた肖像画。1813年に結婚した二人は、1849年にマドレーヌが死去するまで非常に仲睦まじい夫婦として知られました。穏やかに微笑みながらこちらを見つめる彼女の姿は、アングルにしては珍しく、やや粗い筆遣いによって描かれています。
1861年、画家シャルル・グレールがパリで開いていた私塾で出会ったルノワールとシスレーは、その後も親交を深めました。本作品では、経済的な困窮など苦難に見舞われる前の若きシスレーが、非常にリラックスした様子で描かれています。
この章ではヴェネツィア、ロンドン、パリといったヨーロッパの大都市を描いた作品をご覧いただきます。ビュールレ・コレクションの中核は、19世紀後半の印象派、ポスト印象派の作品ですが、大学で美術史を学んだビュールレは、自らのコレクションにも歴史的な広がりを与えたいと考えていました。18世紀前半のカナレットが描いた写真のようなヴェネツィアの風景。それから百数十年後の、色彩の中に全てが溶け合うようなモネのロンドンの風景。二つの作品は風景表現の歴史と画家の個性のあり方を明確に教えてくれます。
景観画の巨匠、カナレットによる本作品には、ヴェネツィアのカナル・グランデの東方の眺望が描かれています。前景に描かれたサンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂は、当時のヴェネツィア絵画において好まれたモティーフのひとつでした。暖かな陽光と輝く水面、澄んだ大気や建造物の細密な表現など、カナレットの景観画の特徴を示しています。
普仏戦争が始まった1870年、ロンドンに移住したモネはターナーの作品に感銘を受け、亡命したフランス人芸術家とのネットワークを築きました。それから20年後、ロンドンを何度か訪れ、都市の建物を主題とした一連の作品に取り組みました。本作品では、光に満ちた、捉えどころのない霧がかった都市の情景が描き出されています。
19世紀のフランス美術の最も大きな変化といえば、主題性が希薄になっていく点があげられます。つまり何を描くかではなく、いかに描くか。神話や宗教、歴史といった、それまで最も重要と考えられていた主題が後退し、風景や静物など、日常の何気ない一瞬を捉えたような作品が画家たちの関心の的となっていきます。この章では、ドラクロワやシャヴァンヌなど、古典的な主題を取り上げながらその様式で近代への扉を開いた画家たちや、しばしば近代絵画の父と称せられるマネを中心に紹介します。
1832年、ドラクロワは記録係としてフランスの使節団によるモロッコ訪問に随行し、同国のスルタン、ムーレイ・アブドゥッラフマーンに謁見しました。ドラクロワは、この時の記録や記憶を基にスルタンを描いた作品を1845年のサロンに出品した後も、同主題をたびたび手掛けています。1862年に描かれた本作品では、多くの従者に囲まれたスルタンの威厳のある姿が鮮やかに描かれています。
東洋趣味を示す本作では、伏し目がちな表情をした女性が、中東風の装飾品とシースルー状の白いロングドレスを身に着け、佇む様子が描かれています。本作品におけるマネの関心は、この衣装の表現に向けられているようです。官能的な衣服を身にまとった女性の姿には、妖艶さと倦怠感が漂っています。
印象派の画家たちは、肖像、静物、風俗など様々な主題に挑戦しましたが、最も熱心に取り組んだ画題が風景でした。パリ近郊、セーヌ河畔の豊かな自然を舞台に繰り広げられる作品の数々は、描かれた時の光のきらめきや風のささやきを感じさせるほど、生き生きと表現されています。世界中の人々を魅了するこの美しい風景画が、誕生当時酷評されたことなど今では信じがたいものがありますが、それほどまでに自然を写し取る彼らの細やかな技法は革新的だったのです。
パリ郊外のルーヴシエンヌで家族と暮らしていたピサロは、普仏戦争が始まると戦争を逃れて数か月ロンドンに滞在しました。プロイセン軍が侵攻し、自宅が占拠されてしまう前に描かれた本作品では、戦争の前の平和な日常を象徴するかのように、柔らかい陽の光が雪道を照らす穏やかな光景が広がっています。
バラやアイリスなど、色とりどりの花を愛でるモネの義理の娘、シュザンヌ・オシュデが描かれています。点描のような細かい筆触からは、印象派絵画の新たな展開がうかがえます。
本作品で描かれているのは、マネが夏の間過ごしていたパリ近郊の別荘とその庭です。戸外で制作され、軽やかな筆の運びと明るい色彩を特徴とする本作品は、マネがモネをはじめとする若い画家たちと親交を持ち、印象派への志向を強めていったことを示しています。
1874年、シスレーはバリトン歌手ジャン=バティスト・フォールに招待され、ロンドンに約4か月間滞在しました。本作品は、シスレーが対岸にハンプトン・コート宮殿を望むキャッスル旅館に滞在した際に制作されました。軽やかな筆致と簡略化した構図によって、夏場のボート競技の様子が生き生きと描写されています。
印象派の画家の多くは風景や静物を得意としましたが、ドガとルノワールの二人は主に人物に力を注ぎました。そして人物を対象にしながら、そのポーズや動きに着目し、冷静なまなざしで一瞬の姿を画面に記録したドガに対し、ルノワールはモデルに寄り添うようにしてその生命の輝きを、豊かな色彩によって謳いあげました。対照的な個性を見せる二人ですが、長い伝統を誇る人物を中心に据えたその作品には、他の印象派の作家とは異なる、どこか古典的な趣が漂っています。
ドガの友人で、印象派展への出品経験をもつ芸術家でもあったリュドヴィック・ルピック伯爵と2人の娘を主題とした肖像画。大胆で自由闊達なすばやい筆致と、透明感ある色遣いによって巧みに表現されています。
本作品の制作当時、65歳であったルノワールの健康状態は深刻化していました。たびたびリウマチの発作に見舞われ、手の関節が変形したことによって絵筆を持つこともままならない状態となったのです。しかしながらその創作意欲が衰えることはなく、本作品でも豊麗で愛らしい裸婦が生命力豊かに描き出されています。
マネ、モネ、ルノワールなど、ビュールレ・コレクションの印象派の傑作は枚挙に暇がありませんが、中でも白眉と言えるのがセザンヌの充実したコレクションです。6点の出品作は、暗い情念を感じさせる初期のバロック的宗教画から、印象派の筆触を独自に展開させた風景画、最盛期の妻の肖像と自画像、キュビスムの先駆を思わせる最晩年の作品まで、この画家の作風の変遷を明らかにしています。そして、近代美術の金字塔ともいえる《赤いチョッキの少年》は、絵画を見ることの喜びのすべてを私たちに与えてくれます。
セザンヌの自画像のなかで最大のサイズを誇ります。画家としての自負にあふれたポーズで、堂々と立つ50歳頃のセザンヌ。頭部や両肩の丸みに、パレットとカンヴァスの鋭い四角形が対比されています。簡素な黒い仕事着に包まれた体躯が、がっしりと立体的に捉えられています。
1902年にセザンヌは、南仏レ・ローヴの丘に新しいアトリエを建てました。少し坂を上るとサント=ヴィクトワール山を一望できるこの絶好の場所で最晩年を過ごしたセザンヌ。その身の回りの世話もしていた庭師ヴァリエは、最後のモデルでもありました。未完の本作品は、晩年に特有の瑞々しく軽やかなタッチで覆われています。
セザンヌと並ぶポスト印象派の代表的画家ファン・ゴッホのコレクションも大変充実しています。6点の出品作はこの画家の様式の変遷をたどるのに十分な多様性を見せていますが、それが僅か6年の間に描かれたものと知るとき、驚きと戸惑いが私たちを襲います。炎の人と呼ばれるこの画家が、いかにその短い生涯を燃やし尽くして作品を生み出したのか、6点の作品が雄弁に物語ります。そして、作者と作品とが分かちがたく溶け合い見るものに迫る、という体験もこのファン・ゴッホから始まります。
ファン・ゴッホは1889年から1890年まで、南仏サン=レミの療養院で過ごしました。ミレーの《落穂拾い》(1857年)からインスピレーションを受けた本作品では、雪景色の中で腰を屈めて働く農婦の姿が描かれています。畑仕事に勤しむ農婦の主題は、ファン・ゴッホにとってオランダの風景とも結びつき、故郷へのノスタルジックな想いを留めています。
サン=レミの療養院を退院した後、ファン・ゴッホは、パリ近郊のオーヴェール=シュル=オワーズで印象派絵画の愛好家でもあったポール・ガシェ医師と多くの時間を過ごしました。かつてガシェ医師が所蔵していた本作品では、厚みを増した筆触を特徴とし、画家がパリ時代に取り入れた新印象主義の手法を独自に発展させたことを示しています。
19世紀後半のフランス絵画は、印象派やポスト印象派の画家たちによる造形的な探求が進み、20世紀のモダン・アートへの道が用意されました。一方で、造形的な探求に飽き足らず、人間の内面に迫ろうとする画家たちも世紀末になると登場し、20世紀絵画のもう一つの方向性を示します。この章では象徴派やナビ派、綜合主義などに分類される、ヴュイヤール、ボナール、ゴーギャンといった画家たちの、時にメランコリック、あるいは謎めいた作品の数々をご紹介します。
本作品は、イギリスの製紙会社J.&E.ベラ社のために制作されたポスターの習作です。コンフェッティとは、カーニバルの時に使用される紙吹雪を意味しています。1890年代、トゥールーズ=ロートレックは、役者や踊り子、そして歌手をモデルに多数のポスターを制作しました。楽しげな表情を浮かべる女性は、画家が長年描き続けていた女優のジャンヌ・グラニエをモデルとしています。
タヒチのパペーテを離れたゴーギャンは、1901年にマルキーズ諸島のヒヴァ・オア島アトゥオナに移住しました。西洋の文明社会から逃れ、タヒチでの生活を始めて以降、ゴーギャンは現地の人々を鮮やかな色彩と平面的な構図の中に描き出しました。新しい命の誕生を祝って花を贈る場面を主題とした本作品では、タヒチ時代の様式に加え、女性の肌には繊細な色調表現が認められます。
この章ではピカソやブラックなど、20世紀のモダン・アートをご紹介します。ビュールレ・コレクションの大半は1940年以降の10数年間に収集されていますが、抽象絵画など当時の現代美術は含まれていません。コレクションの中で最も新しいものは20世紀初頭のフォーヴィスムやキュビスムなど、その後の絵画の急激な変貌を予兆するモダン・アートの一群の作家たちです。僅かな時間の間に目まぐるしいほどの変化を見せる彼らの作品は、20世紀初頭の絵画革命の熱気を生き生きと伝えてくれます。
ルーヴル美術館における模写を通して古典美術に親しんでいたドランは、厳しい造形性と自由で大胆な色彩と筆遣いを、セザンヌとファン・ゴッホから学びました。本作品でも、テーブルや椅子、果物などのモチーフにはセザンヌの静物画からの、そして、力強い色彩の調和と極端に誇張された遠近法にはファン・ゴッホからの影響がみられます。
マティス、ヴラマンクらとともに、1905年のサロン・ドートンヌに出品したドランは、原色を多用する強烈な色彩と荒々しい筆のタッチのせいで、「野獣(フォーヴ)」の一員とみなされました。
ビュールレ・コレクションには、モネ、ファン・ゴッホ、セザンヌなどの傑作が数多く含まれており、今回、近代美術の精華ともいえる作品64点を展示しますが、そのおよそ半数は日本初公開です。なかでもモネの代表作の一つである《睡蓮の池、緑の反映》は、これまでスイス国外には一度も出たことのなかった高さ2メートル×幅4.25メートルの大作です。日本でまだ誰も見たことのないモネの「睡蓮」。門外不出といわれたモネの最高傑作をこの機会に ぜひご覧ください。
写真撮影OK
日本初公開1883年、ジヴェルニーに移り住んだモネは、自宅の敷地内にエプト川から水を引き、睡蓮の池を作り上げました。植物の様々な色彩を映し出し、時の流れに応じて表情を変える水面は、画家の後半生の創作の中心的モティーフとなったのです。モネの死後、しばらくアトリエに保管されていた本作品をビュールレは高く評価し、3点の「睡蓮」を主題とする作品を購入しました。そのうちの2点をチューリヒ美術館に寄贈し、1952年にチューリヒ美術館でモネの個展が開催された後、本作品を購入しました。
こうした傑作の数々は、ドイツに生まれ、スイスで後半生をすごしたエミール・ゲオルク・ビュールレ(1890 - 1956)が集めました。学生の頃から美術に興味を持っていたビュールレですが、第一次世界大戦と第二次世界大戦を経験し、美術とはかけ離れた世界で実業家として成功、富を築きました。しかし、目まぐるしく状況が変化する世界と自身の仕事を通じ、やはり彼にとっての心の拠りどころは美術でした。時間を見つけては、チューリヒの邸宅の隣にある別棟で自身のコレクションをひたすら眺め、絵画の世界に浸っていたというビュールレ。彼の死後、その別棟は美術館として改築され、コレクションが一般公開されていましたが、スイス国外に彼の所蔵作品がまとまって公開されたのは過去に数回のみ、そして世界に大々的に報じられた2008年の4点の絵画盗難事件以来、一般公開が規制されてしまいました(その後、4点は無事に戻されました)。そして2020年には、ビュールレが生涯を通じ財政的支援を続けてきたチューリヒ美術館に、全てのコレクションが移管されることが決まっています。ビュールレのコレクターとしての視点が感じられるコレクションの全貌を日本で見る機会は、おそらく本展が最後となります。