[アーカイブ]いにしえの旅

[アーカイブ]いにしえの旅 : No.10

布袋図(ほていず)

積み重なった伝説の魔力
【図1】布袋図

【図1】布袋図

 まず皆さんの眼で、画面をよくごらんいただきたい【図1】。描かれたのは、弥勒の化身として信仰を集めた布袋さん。変人ぶりが評判となった千年前の実在の中国人だ。太鼓腹を出して笑う豚鼻の丸顔をみて、皆さんはどんな感想を持たれるだろうか。「不気味」、「うす汚い」、それ以前に「絵がよく見えない」など、たくさんの感想があるだろう。その実感を最後まで忘れずに、今回の「いにしえの旅」にお付き合いいただきたい。

 この作品は九州国立博物館の目玉の一つで、国重要文化財に指定されている。六週間の期限付きながら、年に一度は文化交流展示「海の道、アジアの路」に出品する予定で、当館の収蔵品の中でも特に大切な絵画である。実はこの作品、五百年も昔から、日本では知る人ぞ知る伝説的な中国絵画であった。

 その理由はいくつかある。一つは画家の名前。室町時代には中国の僧侶画家・牧谿(もつけい)(十三世紀に活躍)が描いたと信じられていた。牧谿は、日本で熱烈に愛好された中国人画家で、「和尚」と呼ばれた存在。一人のお坊さんを、名前を書かず単に「和尚」と特別視するのは、しいて言えば「ミスター=長嶋茂雄」の感覚に近いだろうか。そんなわけで日本では、この巨匠の絵がブランド化し、お手本となって何度も同じ図柄が繰り返し描かれている。本図が彼の本物である確証はないものの、かつて大勢の鑑賞者がそう信じていたという歴史的な事実には、とても大きな意味がある。

 もう一つの理由は、その華々しい伝来。日本初公開の正確な日時は定かでないが、この中国絵画は一四三七年の「室町殿行幸」を皮切りに表舞台に登場する。この行幸は当時の最高権力者である室町幕府将軍・足利義教が、後花園天皇を自邸に迎えた一世一代の大イベント。このとき、義教の側近が「会所」という建物を飾った千点以上もの品物をすべて書き留めた記録があるが、本図は最も格の高い掛け軸としてリストの一番初めに登場する。人をひきつける印象的な作品だったのであろう。

 この後、本図は銀閣を造営させた足利義政や川中島の合戦で知られる上杉謙信の所蔵品となり、これ以降も江戸時代には徳川将軍家に伝来するなど、常に権力者の傍にあって珍重された。茶道に詳しい方なら、この掛け軸は高名な茶道具で「腹さすり布袋」の愛称をもつこともご存じであろう。

 これが、布袋図の主な履歴書である。こんな話を聞いた後で虚心に絵に向き合うのは、誰にとっても難しい。作品が「ご立派」にみえなければ、自分の感性に問題があると思わせてしまうのが、積み重なった「伝説」の厄介な魔力である。

 というわけで、最初に読者諸氏が率直に抱いた実感を思い出していただきたいのである。「伝説」の形成史を客観的に把握すること、そして他ならぬ自分の眼を通じて等身大に作品を理解すること。私は、この二つの重要性を痛感している。だからこそ、歴史が紡いできた美術品に対する神話を、読者の皆さんが無批判に継承することを望まない。

【図2】描かれた布袋さんの両眼

【図2】描かれた布袋さんの両眼

 さて、冒頭に絵をみるようお願いしておきながら、説明は画面から離れてしまった。残された紙幅で私は、絵の見方の案内人となる必要があるだろう。

 この水墨画のポイントは、筆遣い。同じ墨でも、水気の多さで紙に墨がしみ込む具合は異なるのだが、この絵の画家はその法則を熟知している。髭(ひげ)や髪などでは、水気の少ない淡墨が紙の上に軽くのり、衣の線では、少し濃い水気の多い墨が紙に滲んでいる。しかも、いちばん濃い墨は、両眼の二カ所にしか使われていない。これが有ると無しとでは大違い。試しに指で眼を隠してみると、途端に絵に締まりがなくなるだろう。ところで、この両眼には瞳の光ような白い点が小さく表されている【図2】。これが絵の具なのか、紙の地の色を塗り残したのか、目視ではよく分からない。今後、詳しく調査してご報告したい。

 ちょっとみただけでは単調に見えるものの、なかなか見どころのあるこの布袋さん。展示室にお出ましいただいたお姿を、皆さんの眼でよくご覧いただきたい。

キーワード
画賛
絵画のテーマなど作品にちなむ内容を記した詩文。「自画自賛」は、美術史の用語としては1人で絵を描き賛も書くという意味。絵と賛は近い時期に作られることが多いため、作品の成り立ちを知る上で画賛は多くの情報を与えてくれる。本図には布袋の逸話を記した中国人僧侶・簡翁居敬(13世紀に活躍)の画賛がある。しかし、絵と賛は別々の紙にある。紙質は同一にみえるが、今後、博物館に導入する機器を用いて分析したい。


副葬することを目的に作られた人物像を俑という。多くは亡くなった人物が生前にかかわりのあった文官や武官、兵士や従者などをかたどっている。当時の風俗や制度を知るうえで貴重な資料。

案内人 畑靖紀(はた・やすのり)
九州国立博物館学芸部文化財課資料登録室研究員