タイは国民の95%が仏教を篤く信仰する仏教国です。
仏教は、ひとびとの日々の暮らしに寄り添い、長い歴史の中で多様な仏教文化が花開きました。
重厚で独特な趣を宿した古代彫刻群、やわらかな微笑みをたたえる優美な仏像たち、仏塔に納められた眩いばかりの黄金の品々、仏教の宇宙観にもとづき荘厳された仏堂の輝き。
本展は、タイ王国門外不出の名宝と、選りすぐりの仏教美術の数々を一堂に集め、仏教がタイの文化形成に果たした役割をひもといていきます。
日タイ修好130周年の節目に、両国が総力を結集して開催する空前の展覧会です。
どうぞお見逃しなく!
現在のタイの国土には、タイ族の国が興る以前、インド文明を取り入れながら、独自の文化を育んだ国々がありました。チャオプラヤー川流域のドヴァーラヴァティー国、スマトラからマレー半島に勢力を伸ばしたシュリーヴィジャヤ国、メコンデルタを中心に発展した扶南国に続くクメール族のアンコール王朝、タイ北部に花開いたモン族のハリプンチャイ国。タイ文化が芽吹く土壌を形成した古代の多様な信仰の世界をたどります。
ナコーンパトム県ナコーンチャイシー郡ワット・サイ遺跡出土
ドヴァーラヴァティー時代 7〜8世紀
プラパトムチェーディー国立博物館
遠い昔、タイのチャオプラヤー川流域を中心に、ドヴァーラヴァティーという国が栄えていました。中国の史書には、7世紀の初めにこの国の使者が唐の都まで朝貢 ちょうこう にやってきていたことが記されています。この彫刻は、箱形の石に浮彫されたもので、もとは法輪を載せるための頂板だったと考えられます。四面には椅子に坐した仏陀が人々に説法する場面が表されており、こうした図像はインドを源流として中国の唐や奈良時代の日本にも伝わりました。
スパンブリー県ウートーン遺跡第11号仏塔跡出土
ドヴァーラヴァティー時代 7世紀
ウートーン国立博物館
ドヴァーラヴァティーの人々は仏教を篤く信仰し、数多くの寺院が造営されました。寺院では仏像や仏塔、そして法輪が造られました。車輪が転がるように仏陀の教えが広まることを意味する法輪は、高い石柱の上に設置され、人々に信仰されました。仏教が普及した世界では、それぞれの国で仏像や仏塔を祀りましたが、ドヴァーラヴァティー国ほど法輪を数多く建立し信仰した国は他にありません。
アユタヤー県ワット・ナープラメーン伝来
ドヴァーラヴァティー時代 7〜8世紀
バンコク国立博物館
衣文を極力省いた薄い衣が身体に密着し、少年のような細身の身体が際立っています。左右がつながった眉、切れ上がった目、小さく張った小鼻、ふっくらした頬、厚い唇など、癖の強い顔立ちがドヴァーラヴァティーの仏像の特徴です。
スラートターニー県チャイヤー郡ワット・ウィアン伝来
シュリーヴィジャヤ様式 12世紀末〜13世紀
バンコク国立博物館
悟 さと りを得た仏陀が瞑想をする間、竜王ムチリンダが傘となり、仏陀を雨風から守ったという説話に基づいてつくられた仏像です。東南アジアでは、水と関係する蛇の神ナーガをとても大切にしており、このテーマの像もたいへん好まれました。本像は、シュリーヴィジャヤ国の重要な都市のひとつであるチャイヤーの中心寺院に安置されていた仏像です。その精緻な作風には、12世紀後半頃に同地におよんだクメール美術の影響がうかがえます。
ウボンラーチャターニー県
プレ・アンコール時代 8〜9世紀初
ウボンラーチャターニー国立博物館
タイの東北部では仏教の信仰と同時に、カンボジアのクメール族の影響でヒンドゥー教も信仰されました。アルダナーリーシュヴァラとは、ヒンドゥー教の男神シヴァとその妃パールヴァティが半身ずつ組み合わされて一体になったものです。この像は東南アジアのアルダナーリーシュヴァラ像としては最初期のものです。
1238年にタイ族がひらいた王朝。スコータイは、「幸福の生まれ出づる国」を意味します。スコータイはタイ中北部の広大な盆地を中心に開けた国で、水路と陸路で諸地域を結ぶ交通の要衝にありました。歴代の王はスリランカから受容した上座仏教を篤く信仰し、多くの寺院を建立しました。タイ族による仏教文化が花開き、タイの文字や文学が生み出されるなど、現在のタイ文化の基礎が築かれた時代です。
スコータイ県シーサッチャナーライ郡ワット・サワンカラーム伝来
スコータイ時代 14〜15世紀
サワンウォーラナーヨック国立博物館
軽やかに片足を踏み出し、歩みを進める仏陀像。穏やかな笑みを浮かべる表情、しなやかで優美な姿にタイ人の美意識を見ることができます。仏陀の歩く姿は、亡くなった母のマーヤー夫人に説法するために三十三天に昇った仏陀が、地上へ降りてくる場面をあらわすとも考えられています。
カムペーンペット県ワット・サデット伝来
スコータイ時代 15世紀
バンコク国立博物館
仏足跡は、仏陀の存在を象徴するモティーフとして古代インド以来、信仰を集めてきました。タイではスコータイ時代にスリランカに残る仏足跡の写しを求めてこれを将来し、その後に仏足跡信仰が大いに発達しました。この作品は、仏教の宇宙観で世界の中心に聳 そび える須弥山 しゅみせん を中央に配し、その周りを吉祥 きっしょう 文様が取り囲んでいます。上辺には遊行 ゆぎょう する仏たちが並び、右端や下辺には王や比丘 びく たちの姿があります。
スコータイ県シーサッチャナーライ郡ワット・サワンカラーム伝来
スコータイ時代 15世紀
サワンウォーラナーヨック国立博物館
面長のお顔に穏やかな笑みを浮かべ、ゆったりと坐す仏陀像です。抑揚を抑えながらも張りのある体や、繊細な指先のつくりなど、スコータイ様式の特徴を顕著にしめしています。台座には、マハータンマラーチャー(サイルータイ王在位1399〜1419)の后の一人が、来世の安寧 あんねい を願って寄進した仏像であることが記されています。
スコータイ県ホー・テーワラーイ・マハーカセート・ピマーン遺跡出土か
スコータイ時代 15世紀
バンコク国立博物館
スコータイ王朝では上座仏教が流行する一方で、バラモン僧がさまざまな儀礼を行なっていました。スコータイの都城近くではヒンドゥーの神像をまつった寺院も見つかっています。ハリハラとは、ヒンドゥー教のシヴァとヴィシュヌが合体した神です。面長の顔に優しさを称えた表情を浮かべ、身体や衣は艶 つや やかな曲線を描き、左右相称を意識した造形は、この時代のヒンドゥー神像の特徴をよく示しています。
アユタヤーは14世紀半ばから400年もの長きにわたり国際交易都市として繁栄しました。アユタヤーの優位性は南シナ海の通商ルートと、ベンガル湾通商ルートという東西の巨大な市場を結ぶ接点に立地していた点にあります。国王は、アユタヤーの肥沃な大地の恵みや、北タイや東北タイの森林から河川によって運ばれる産物をもとに、日本、琉球などの東アジア国家、東南アジアの国々だけでなく、中東や西洋とも活発に貿易を行ない、莫大な富を蓄えた「大商人」でした。上座仏教を国教とする一方、王の権力と神聖さを高めるためのインド的な儀礼や位階制度が整えられるなど集権化が進みました。
アユタヤー県ワット・ラーチャブーラナ遺跡仏塔地下出土
アユタヤー時代 15世紀初
チャオサームプラヤー国立博物館
寺院の仏塔内部に設けられた「クル」という空間から発見された金冠。男性の髷 まげ に被せる冠で、王が持つべき5種の神器の筆頭に挙げられます。仏塔に王の神器を奉納するというのは、未来のダルマラージャ(仏法王 ぶっぽうおう )のためのもので、未来も正しい王によって仏法が守られ、国が栄え、安寧であることを願ったと考えられています。
アユタヤー県ワット・ラーチャブーラナ遺跡仏塔地下出土
アユタヤー時代 15世紀初
チャオサームプラヤー国立博物館
スリランカ様式とインド北東部のパーラ様式が混交した仏塔形の舎利容器。仏塔内の奉納品で、すっと立った円錐状の尖塔部分や優美な膨らみを帯びた覆鉢 ふくばち 、基部にめぐらされた花文様など、洗練されたそのかたちは、現存しないアユタヤー初期の仏塔の姿を知る貴重な手がかりとなっています。
アユタヤー県ワット・ラーチャブーラナ遺跡仏塔地下出土
アユタヤー時代 15世紀初
チャオサームプラヤー国立博物館
タイといえば象。タイの人々は長い間、象と深く関わりながら生活をしてきました。とりわけ、白象を得た国王は、 人徳が高く人々から敬われる存在と信じられており、象は王の象徴でもありました。冠を被り、貴人が乗る豪華な 輿 こし を背に載せたこの象は、四肢を地に付けて伏し、鼻を高くあげています。さながらそれは王国の繁栄を言祝 ことほ ぐか のようです。
チエンマイ県ホート郡ワット・チェーディースーン出土
ラーンナータイ様式 16〜17世紀
バンコク国立博物館
北の都、ラーンナー王国でつくられた王の玉座模型。王の神器である傘、払子 ほっす 、団扇 うちわ 、さらに宝靴 ほうか が見られます。本品は小品ながら玉座の上に並ぶ持物や履き物までも精巧にあらわしており、当時の国王の権威をよく伝えています。しかし、ラーンナー王国は、16世紀後半以後、タウングー朝ビルマとアユタヤーの間において、断続的に両者の統治下にありました。
シャムとは、江戸時代から知られていたタイの呼称です。シャム、つまり当時のアユタヤーは国際交易都市として栄え、16世紀末から17世紀にかけて日本からも新たな市場や活躍の場を南方に求めた朱印船貿易家たちが集い、日本人町が形成されました。それを遡る100年前には既に、琉球を介して日本とシャムの交流が始まっており、日本の対外交流史のなかでもシャムとの交易はきわめて大きな位置を占めていました。彼らを駆り立てたのは、遠い異国へのあこがれだったかもしれません。
江戸時代 安政5年(1858)
大阪・杭全 くまた 神社
展示期間 4月11日〜5月7日
末吉孫左衛門吉康 すえよしまござえもんよしやす (1569〜1617)がシャムへ派遣した朱印船(末吉船)が帰国する様子を描いた衝立。風にたなびく「末吉」や「順風」の旗のもと、酒を飲んだり囲碁を楽しむ人々が活写されています。慶長9年(1604)から寛永12年(1635)までの32年間で、朱印船の海外派遣数は実に356隻を数えます。このうち、大坂・平野の末吉孫左衛門は京都の角倉素庵 すみのくらそあん に次いで多くの朱印船を派遣した商人として知られ、その船はシャムで造られたとの言い伝えがあります。
ラタナコーシン時代 1918年
タイ国立図書館
展示期間 4月11日〜5月7日
アユタヤーの国王が、僧院へ功徳衣(=カティナ衣)を献上に向かうさまを描いた行列図。象に乗ったシャム人指揮官や外国兵とともに、行列の最後尾には薙刀 なぎなた を手に髪を剃り上げた日本人義勇兵が並びます。隣国のビルマやクメールなどとの長い戦争の中で、アユタヤーには多くの傭兵が集まりました。日本人義勇軍の勇猛さは、アユタヤー王朝年代記にも記されています。この写本の原図は、アユタヤーの僧院ワット・ヨムの壁画で、本品は1918年にラーマ5世の異母弟ダムロン親王の命によって手漉き紙に写し取られたもの。
アユタヤー時代 17世紀
長崎・是心寺
九州の西北端に位置する平戸は、早くから海外に開かれた港湾都市でした。この像は、対岸に平戸城をのぞむ是心寺 ぜしんじ に伝えられた仏陀像です。頭上の宝珠 ほうじゅ 形飾り、切れ長で大きな目、ぴったりと揃えた指、やや反り返った指先など、17世紀以降のタイで流行した仏像の特徴をよく示しています。是心寺の中興に関わった朱印船貿易家の尾崎九郎左衛門 くろうざえもん 、九郎助 くろすけ 親子のいずれかがシャムから持ち帰ったと考えらます。
堺環濠都市遺跡出土
アユタヤー時代 16世紀後半〜17世紀
大阪・堺市
国際交易都市として栄えた堺からは、実に多様な外国製の陶磁器が出土しています。タイのやきものとしてもっとも著名なものが、メナムノイ窯で焼かれた四耳壺です。胴がたっぷりと膨らんだこの壺は、コンテナ容器として用いられ、東南アジアや中東など、各地の遺跡からも発見されています。堺で出土したこの壺には、黒色火薬の原料となる硫黄が詰められていました。
ラタナコーシンとはインドラ神の宝蔵を意味します。その都はクルンテープ(天人の都)と呼ばれてきました。タイ人はビルマ軍との戦いで灰燼に帰したアユタヤーの都を復元するように、ここに新しい都を築き、アユタヤーの芸術文化の復興に力を注ぎました。最終章ではラタナコーシン朝に集積されたタイの伝統美術とその展開をご紹介します。
ラタナコーシン時代 19世紀
バンコク国立博物館
1630年代に鎖国が強化されていく中で、日本とシャムを結びつけていた朱印船貿易は終焉を迎えました。しかし、かつて日本人によってもたらされた刀剣は、タイ国内において独自の進化を遂げることになります。しかもそれは実用的な武器ではなく、国王の戴冠式をはじめとする国家的儀礼のなかで王権の象徴のひとつとして扱われていきました。日本刀の拵 こしらえ を踏襲しつつ、外装を全てまばゆい金の板で仕上げたその美しさは、まさにタイ芸術の粋といえましょう。ラーマ3世王朝時代の民部大臣チャオプラヤー・ボーディンデーチャー(1775〜1849)旧蔵。
トンブリー時代 18世紀
タイ国立図書館
展示期間 4月11日〜5月7日
地獄や天界を遍歴することのできるマーライという名の尊者が、天界で弥勒菩薩 みろくぼさつ に会い、弥勒菩薩の伝言を人間界の人々へ語るという仏教説話が記されています。タイでは「マーライ経」として広く知られ、関係する貝葉写本 ばいようしゃほん はタイのほぼ全域の寺院に収められ、儀礼で読誦 どくじゅ されたり、寺院壁画や絵入り写本に描かれたり、その説話は人々の功徳 くどく を促す役割を担ってきました。
ラタナコーシン時代 19世紀
バンコク国立博物館
ニエロ(黒金)は、硫黄や銅、銀、鉛などからなる黒色合金のこと。この水注は、銀地にニエロ装飾と呼ばれる象嵌 ぞうがん を器面全体に施しています。ニエロ装飾はラタナコーシン朝を代表する工芸技法のひとつで、黒地に金色が映える唐草文様は、同時代の工芸作品にしばしばみられます。この水注の見事な出来映えは、華やかな宮廷生活や荘厳な大寺院でかつて用いられていたことを彷彿 ほうふつ とさせます。
バンコク都ワット・スタット仏堂伝来
ラタナコーシン時代 19世紀
バンコク国立博物館
5.6メートルを超えるこの大きな扉は、1807年に創建されたワット・スタットという第一級王室寺院の正面を飾っていたものです。国王ラーマ2世(在位1809〜1824)が自ら精緻な彫刻をほどこしており、王室とともに育まれたタイ文化を象徴する至宝といえます。チーク材の扉の表側には、天界の雪山に住むとされるさまざまな動物たちが重層的に表わされています。裏側には寺院を守る鬼神たちの姿が描かれます。この扉の完成後、ラーマ2世は他に同じような扉を作らせないように、使用した道具をすべてチャオプラヤー川に捨てさせた、という逸話が残っています。1959年の火災で一部が焼損を受け、その後処置を施せない状態でしたが、2013年から日タイで協力し、保存修理作業を進めて来ました。