ここ九州の地に、新たなユネスコ世界文化遺産として、「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」が登録されようとしています。地元・宗像の海の民に守られてきた変わらぬ自然と風景、宗像大社を中心に守り続けられてきた祈りが一体となって、世界の遺産として、次世代に引き継がれようとしているのです。
海の正倉院とも称される沖ノ島は、『古事記』・『日本書紀』に「沖津宮」と記された由緒ある社であり、古くから貴重な宝物が神宝として奉納されてきました。その一部は発掘調査で発見されており、今日では8万点にもおよぶ神宝が「国宝」に指定され守られています。これほどの神宝を納めた祭祀遺跡は他に例がなく、大和朝廷の国家祭祀の中でも、沖ノ島祭祀がとくに重要な役割を果たしていたことを物語っています。
特別展「宗像・沖ノ島と大和朝廷」では、『古事記』・『日本書紀』の記述と発掘調査の出土品を交差させながら、神宿る島の源に迫ります。日本の国づくりを進めた大和朝廷に重要視された沖ノ島祭祀の探究は、九州国立博物館の理念「日本文化の形成をアジア史的観点から捉える」を体現するものです。日本古来の信仰を伝える沖ノ島と、海路で結ばれた大和・筑紫・韓国の出土品を読み解くとき、「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」がさらなる輝きを放つことでしょう。
ユネスコ世界文化遺産への登録を直前にひかえた今春。九州国立博物館で一足先に開催する本展覧会が、「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」を身近に感じていただく機会となれば幸いです。
沖ノ島祭祀の舞台であり、東アジア交流の窓口となった筑紫の海。沖ノ島祭祀を担った宗像君をはじめとした筑紫の人々は、九州沿岸を基点に大和・筑紫・韓国で躍動しました。その躍動の歴史は、『古事記』・『日本書紀』に記録されるだけでなく、発掘調査によっても明らかとなりつつあります。本章では、往時の海上航路をたどりながら、宗像君・筑紫君等をはじめとした豪族の姿を紹介します。
大阪・岡古墳
古墳時代・4世紀
藤井寺市教育委員会
豪族が所有していた船を模した埴輪。船の前面に取り付けられた竪板 たていた が、大海原の波濤を裂いて進みます。
福岡・奴山正園古墳
古墳時代・5世紀
福津市教育委員会
碧玉 へきぎょく ・水晶 すいしょう ・瑪瑙 めのう ・翡翠 ひすい・ガラス ・滑石 かっせき を素材とした勾玉。国際色豊かな宗像君に相応しく、アジア各地の多様な素材が用いられています。
福岡・平塚古墳
古墳時代・6世紀
九州国立博物館
行橋市 仙掌菴 福島小太郎寄贈
現代・21世紀
個人蔵
南西諸島で採取されたイモガイは、馬具・腕輪等の素材と して東アジアで流通しました。イモガイ特有の文様と光沢の 自然美は、古代の人々を魅了し続けたのです。
福岡・岩戸山古墳
古墳時代・6世紀
久留米市教育委員会
大きく両手を広げた武人の姿を模した石人。筑紫君に率いられた武人らは、527年〜528年にかけて「筑紫君磐井 つしくのきみいわい の乱」と呼ばれる、大和朝廷との熾烈な戦いを繰り広げました
沖ノ島祭祀が成立した古墳時代。人々は、清らかな水辺や村の中で「八百万乃神」に祈りを捧げていました。また、古墳に死者を埋葬する際には、墓室に宝物や食料を納め、墳丘に常世の姿を模した埴輪をならべていました。これらの神まつりや古墳祭祀の風景は、日本最古の歴史書である『古事記』・『日本書紀』の記述に散りばめられるだけでなく、発掘調査で発見される祭祀の痕跡や古墳からも垣間見えます。『古事記』・『日本書紀』に記された世界と日本各地の出土品を照らし合わせたとき、日本古来の神まつりの姿が浮かび上がります。
男神イザナキノミコトと女神イザナミノミコトは、天の浮橋から、天の下を矛でさぐられた。天の下には青い海原があり、矛の先から滴った海水がかたまって、一つの島となった。
この島に降り立たれたイザナキノミコトとイザナミノミコトは、夫婦になって国土をお産みになった。
男神イザナキノミコトは亡くなった女神イザナミノミコトを追いかけ、死後の世界である黄泉の国へと向かわれた。
暗闇の中でイザナミノミコトは、「私はもう黄泉の国の食べ物を食べてしまい、もとの世界へはもどれません。どうか、私の姿を見ないで下さい」とお伝えになった。しかし、イザナキノミコトは聞き入れずに火を灯されると、眼前にはイザナミノミコトの亡骸が横たわっていた。
アマテラスオオミカミは、スサノオノミコトの十握の剣を「天の真名井」から湧き出る清水ですすぎ、カリカリとかんで霧を噴き出し、三柱の女神をお産みになられた。
スサノオノミコトは、アマテラスオオミカミの玉を、「天の真名井」から湧き出る清水ですすぎ、カリカリとかんで霧を噴き出し、五柱の男神をお産みになられた。
その後、アマテラスオオミカミは三柱の女神を海路におかれ、歴代の天皇をお助けするようにと命じられた。三柱の女神は、筑紫の宗像君らがまつる神となられた。
東に軍を進める神武天皇は、神の教えに従って、香具山の社の土で手抉や御神酒甕をつくり、丹生川の上流で神まつりを行われた。
御神酒甕を丹生川に沈めると、神意のとおりに魚が木の葉のように流れていった。
このときから、神まつりに御神酒甕が用いられるようになったのである。神まつりの後、神武天皇は東征を成し遂げられた。
茨城・伝真鍋古墳群
古墳時代・6世紀
九州国立博物館
月夜の晩に古墳の下で出会った一頭の赤い馬。連れ帰った翌朝には、馬の埴輪に変じてしまいます。この説話は、『古事記』・『日本書紀』に記された馬形埴輪の不思議な記録です。古墳にならべられた馬の埴輪は、古代の人々が理想とした優駿の姿です。
大阪・狼塚古墳
古墳時代・5世紀
藤井寺市教育委員会
大和を中心に発見されている水の祭祀場を模した埴輪。約1.2m四方の柵形埴輪に囲まれた内部に、木樋 もくひ 形埴輪が置かれています。木樋を流れた清らかな水は、日本古来の神まつりで、とくに重要視されていました。宗像三女神を生み出した霧も、「天の真名井 あまのまない 」からくみ上げられた清水であったと『古事記』・『日本書紀』に記されています。
清彦が垂仁天皇の命で献上した刀子が蔵の中から無くなった。不思議に思われた垂仁天皇は、清彦に刀子の行方をお尋ねになられた。
清彦は「昨日の夕方、刀子がひとりでに私の家にやって来ましたが、今朝にはいなくなっていました」とお答えした。
この後、刀子はひとりでに淡路島に行き、島の人々に神として祀られた。
垂仁天皇は古墳に従者を生きたまま埋める殉死のことで心を痛められ、殉死を止める方法を臣下に問われた。
そこで、野見宿禰は、土でつくった人や馬などを天皇に献上した。
天皇は喜ばれ、「今から後、古墳には必ずこの土物をたてて、人を損なってはならぬ」といわれた。この土物を名づけて埴輪といった。
伯孫は、月夜の晩に古墳の下で、優れた赤馬に乗っている人に出会った。
伯孫は、この赤馬が欲しくなり、自分の芦毛馬と交換してもらった。家に帰った伯孫は、赤馬を厩に入れて、眠りについた。
翌朝、伯孫が厩を見ると、赤馬は埴輪の馬に変わっていた。不思議に思った伯孫が古墳の下に戻ると、芦毛馬が埴輪の間に立っていた。伯孫は埴輪の馬と芦毛の馬を取り換えて帰っていった。
蘇我氏と物部氏の戦に敗れた捕鳥部万は、敵方の兵士に追われていた。追い詰められた万は、川のほとりで小刀を首に刺して自決した。
兵士が万の亡骸に近づくと、雷鳴が轟き大雨が降り、万が飼っていた白犬が飛び出してきた。白犬は万の亡骸のまわりをぐるぐると回り、天に向かって吼えた。やがて、白犬は万の頭をくわえて、古い墓に納めた。
白犬は万の傍を離れず、ついに飢え死にしてしまった。
哀れに思った朝廷は、万の一族に命じて墓をつくらせ、万と白犬を葬った。
大和から遠く離れた絶海の孤島・沖ノ島で行われた神まつり。沖ノ島祭祀遺跡で発見された約8万点 の国宝には、三角縁神獣鏡・金製指輪・金銅製龍頭をはじめとした希少な宝物が数多く含まれています。 これほどの宝物を奉納した祭祀遺跡は、他に例がなく、大和朝廷が行った国家祭祀の中でも、沖ノ島祭祀がとくに重要な役割を担っていたことを物語っています。本章では、沖ノ島、大和、韓国の祭祀遺跡や古墳の出土品を比較しながら、神宿る島の源に迫ります。
奈良・黒塚古墳
古墳時代・4世紀
文化庁所蔵・奈良県立橿原考古学研究所保管
大和朝廷の象徴とも言える青銅の鏡。大和の黒塚古墳では、34面におよぶ青銅鏡が副葬されていました。
奈良・島の山古墳
古墳時代・4世紀
文化庁所蔵・奈良県立橿原考古学研究所保管
奈良・島の山古墳
古墳時代・4世紀
文化庁所蔵・奈良県立橿原考古学研究所保管
北陸地方で産出する碧玉 へきぎょく を素材に、南島の貝をモチーフとして製作された腕輪。大和の島の山古墳では、133点以上の石製腕輪が出土しています。
奈良・三輪松之本遺跡
古墳時代・5〜7世紀
奈良県立橿原考古学研究所
大物主大神 おおものぬしのおおかみ が祀られる三輪山の山麓は、大和朝廷発祥の地です。三輪山周辺の祭祀遺跡では、日本古来の祭祀具である子持勾玉が出土します。
福岡・沖ノ島18号祭祀遺跡
古墳時代・4世紀
宗像大社
沖ノ島祭祀遺跡では、これまでに70面以上の青銅鏡が出土しています。神社の御神体にも多い鏡は、日本古来の神まつりと密接に結びついていました。
福岡・伝沖ノ島
古墳時代・4〜5世紀
宗像大社
福岡・沖ノ島5号祭祀遺跡
古墳時代・4世紀
宗像大社
石製腕輪は青銅鏡とともに、大和朝廷の中枢で宝具として重宝されました。沖ノ島の祭祀遺物は、複合的に大和の古墳副葬品とも重なります。
福岡・沖ノ島8号祭祀遺跡
古墳時代・5〜6世紀
宗像大社
大和の三輪山と同様に、沖 ノ島でも子持勾玉が出土し ます。5〜6世紀に用いられた祭祀具の一つです。
奈良・新沢千塚126号墳出土
古墳時代・5世紀
東京国立博物館
シルクロードの薫りを漂わせる花形デザインと金粒の細工。多くの渡来人が見られる5世紀から、日本の黄金文化も芽吹きはじめました。
福岡・沖ノ島7号祭祀遺跡
古墳時代・5〜6世紀
宗像大社
沖ノ島の神宝を代表する黄金の指輪。全面に施された精緻な装飾から、往時の最高級品が奉納されていることが分かります。
展示期間:1月31日(火)〜3月5日(日)
韓国 慶尚北道・皇南大塚南墳
三国時代(新羅)・5世紀
国立慶州博物館(韓国)
新羅王陵の中でも特に巨大な皇南大塚南墳で出土した黄金の指輪。青いガラス珠がはめ込まれた新羅王の遺品です。
福岡・沖ノ島5号祭祀遺跡
飛鳥-奈良時代・7〜8世紀
宗像大社
一対をなす龍の装飾品。力を込めるように歯を食いしばった表情と、反り返り流れる髭 ひげ の造形が、鎌首 かまくび をもたげて動き出す一瞬の静寂を切り取っています。
展示期間:1月1日(日・祝)〜1月29日(日)
韓国 慶尚北道・月池
統一新羅時代・8世紀
国立慶州博物館(韓国)
中国文明に起源をもつ龍は、やがて皇帝や王の権威を象徴する神獣となりました。唐との接近を図った新羅の王宮でも、龍の装飾が用いられています。
奈良・藤ノ木古墳
古墳時代・6世紀
文化庁所蔵・奈良県立橿原考古学研究所保管
シルクロードから伝来したパルメット文様に龍の姿が溶け込んでいます。黄金の輝きの中に、ダークブルーの眼光が輝いています。
古代より国の安寧を願い、祈りが捧げられてきた玄界灘の孤島・沖ノ島。宗像の海の民は、沖ノ島に宿る女神を崇め、厳格な掟を継承してきました。 この掟によって、今日まで古代の祭祀跡が手つかずのまま残されてきたのです。変わらぬ自然と風景、今、ふるさとの人々が一体となり、過去から現在へと引継がれてきた絶え間ない祈りを、世界の遺産として次世代に伝えていこうとしています。
宗像大社辺津宮
高宮祭場
特別展『宗像・沖ノ島と大和朝廷』の会期中は「神やどる島 宗像 沖ノ島」を上映します。
(3月1日〜5日は「不思議・再発見!200年前の日本地図」と入れ替え上映)
4階文化交流展示室にお越しください。特別展のチケットでご覧頂けます。
特別展「宗像・沖ノ島と大和朝廷」の図録に誤りがありました。お詫びして訂正いたします。 既にご購入のお客様には、ご迷惑をおかけしますが、正誤表をダウンロードしてご利用ください。