京都市の北西に位置し、市内の喧騒 けんそう を離れて静かにたたずむ高山寺 こうさんじ 。ここはかつて、仏教に関する最先端の情報やモノが集まる活気あふれる場所でした。それを人並みはずれた行動力と篤い信仰心で牽引 けんいん したのが、鎌倉時代はじめに高山寺を中興した明恵上人 みょうえしょうにん (1173〜1232)です。求道のために耳を切り、釈迦を父と慕うあまりその出生地であるインド行きを切望するなど数々の逸話が伝えられています。仏道修行にかけた彼のひたむきで真摯な生き方は、在世時から現代に至るまで多くの人々を魅了しつづけています。
本展では、近年修復を終えたばかりの国宝「鳥獣人物戯画」全四巻をはじめとする高山寺の名宝を一挙にご紹介するとともに、明恵上人と同時代の人々との親交を語る品々から、稀代 きたい の聖僧・明恵上人の実像に迫ります。本展を通して明恵上人の高潔な人柄に触れていただくとともに、大陸との交流も盛んに行われたダイナミックで個性豊かな鎌倉仏教の世界をご覧いただければ幸いです。
四季折々の美しさを見せる高山寺の境内
平安時代・承安3年(1173)、現在の和歌山県有田に明恵上人は生まれました。幼くして両親を亡くし、叔父を頼って京都の神護寺に入った明恵は、幼い頃から釈迦を父と慕い、その誕生の地であるインドへの強い憧れを抱きながら、現実世界への不満を打ち消すように修行にのめりこみました。やがて京都を飛び出し、生まれ故郷の和歌山に戻った明恵は、数人の弟子とともに修行に没頭しました。和歌山での約10年間は、明恵教団の始まりとも言える時期です。
建永元年(1206)、明恵34歳のとき、後鳥羽院 ごとばいん より高山寺の地を賜ります。京都と和歌山を点々とする定まらない生活をしていた明恵と弟子たちは、以降ここを拠点として活動します。入宋 にっそう 経験のある僧侶や貴族らとの幅広い交流を通して高山寺には最先端の情報やモノがもたらされ、彼らは精神的にも物質的にも充実した日々を送ります。そして晩年、明恵はついに自らの理想を完成させるに至りました。
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寛喜4年(1232)、明恵は60歳でその生涯を終えます。彼の死後、残された弟子や帰依者たちはその功績を後世に伝えるため、伝記や和歌集の作成、華厳経の写経など、さまざまな事業を行いました。明恵亡きあとも弟子たちによってその法灯は守られ、明恵の死後800年近く経ったいまでも、高山寺には明恵の教えが息づいています。
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