八幡神は、大分県宇佐の御許山(おもとやま)にあらわれた応神天皇の御霊とされる。威厳ある表情は、まさに応神天皇の姿としてつくられたことを示す。像内に収められた木札から、赤穴(あかな)荘の地頭・紀季實が大仏師(だいぶっし)慶覚につくらせたとわかる。鎌倉時代の神像彫刻の名品。
東大寺大仏殿や手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)の屋根を修繕するための勧進(かんじん)の所用具として制作された、色彩鮮やかな絵巻。下巻には、大仏造立を助けた八幡神が、その尊顔を拝するために神輿(みこし)にのり奈良に上京した様子が描かれている。
画面上方に阿弥陀三尊、下半には釈迦三尊を描く。琴弾八幡宮の開基(かいき)・日証(にっしょう)上人の本地(本来の姿)が釈迦で、八幡宮の本地が阿弥陀であるという伝承があり、本図もそうした縁起に基づくと考えられる。明治時代の神仏分離以前は、隣接する琴弾八幡宮に祀(まつ)られていた。
源頼朝が寄進したと伝えられる。量感豊かな姿が豪壮な螺鈿鞍である。表面には夜光貝(やこうがい)による螺鈿で松皮菱文を表わし、ところどころに蔦(つた)の葉を散らす。
宇佐神宮の放生会で使われたお神輿(みこし)の内面を飾っていた。内容は、釈迦の教えを説く『法華経』に基づく。宇佐の復興事業の一環で、豊前の守護大名・大内盛見が制作させた。
応神天皇の父・仲哀(ちゅうあい)天皇の塵輪(じんりん)退治ではじまる八幡縁起。柞原宮(ゆすはらぐう)との関係が深かった大友義鑑(よしあき)が、この絵巻を制作、奉納させたと考えられる。
神亀5年(728)、大宰帥(だざいのそち)・大伴旅人(おおとものたびと)が、大宰少弐(しょうに)・小野老(おののおゆ)など大宰府の官人らとともに、仲哀天皇と神功皇后を祀る香椎宮に参拝し、詠んだ和歌を収める。香椎宮の存在が確認できる最古の文献。
「宇佐使(うさづかい)」に任じられて宇佐神宮に旅立った主人公が、かつて別離し今は他人の妻となった女と再会する話。宇佐使とは、天皇の即位や国家の大事を宇佐神宮に奉告(ほうこく)する天皇の特使である。
仁和寺の僧侶が、長年行きたいと願っていた石清水八幡宮に参詣することになった。麓の摂社を本宮と思い込み、山上の本殿を見ずに帰ってしまったという失敗談。建物のそばに手を合わせる僧が見える。