過去の展示情報
日本とタイ - ふたつの国の巧と美
概要:
600年におよぶ長い交流の歴史をもつ日本とタイ。江戸時代のはじめに遠い南方から輸入された品々の中には、現在のタイ王国をさす「しゃむろ」「暹羅」の名で呼ばれたものがあり、たいへん珍重されました。それは、日本人にとってタイからの輸入品が単なる舶来品ではなく、格別の価値を有していたからにほかなりません。一方、タイのアユタヤには日本人町が作られ、山田長政のようにタイ国王に仕えたと伝えられる日本人もいました。
本展は日タイ共同で企画され、両国の文化財が一堂に会する初めての展覧会です。
「国のはじまり」、「仏教」、「出会い」、そして今日に生きる「伝統」という視点から両国の造形と美意識を探ります。先史時代の稲作文化と祈りの形、仏教美術、文化交流によって作りだされた美術品の数々。ふたつの国の長い固有の歴史と出会いの中で生まれてきた造形美をご覧ください。
この展覧会を通して、両国の歴史と文化に関心を寄せていただければ幸いです。
会期:
平成23年4月12日(火)〜6月5日(日)
会場:
九州国立博物館4階 文化交流展示室 関連第9・10・11室
出品件数:
日本側:56件(うち国宝2件、重要文化財7件、重要美術品2件)、タイ側:50件
タイと日本は、世界史的に見れば石器時代から金属器時代の発展段階を経過して、水稲農耕を経済基盤とした初期国家の成立へと歩んだ共通の歴史がある。近年の遺跡調査のめざましい成果を通じて、その歴史の事実への接近を試みている。また、土器の出現や金属器の生産と農耕の始まりなど、共通して経験した社会的変革の実態を明らかにしようとしている。もちろん気候条件や地理的環境は大いに異なり、文化的な接触の範囲も重ならないことから、東南アジア的なタイ、あるいは東アジア的な日本というそれぞれの地域の文化伝播を前提にした枠組みでの歴史認識が構築されてきた。しかし、例えばタイの青銅器文化を象徴する銅鼓と日本の銅鐸は、農耕儀礼と深く関わる祭器であり、幾何学文様で飾られること、さらには実用的な小さなものから儀器用の大型に変化することなど、地理的に遠くとも共通する文化要素をあげることができる。多くの人がこの章で取り上げた土器や金属器、甕棺など、個別に花開いた文化にも類似する特徴があることに驚かれるのではないだろうか。直接の文化伝播とはいえないものの、アジア全体のダイナミックな歴史の中で、両国の古代文化での共通性と独自性に関心を寄せてみたい。
インドを源流とする仏教は広くアジアに広まった。日本には中国、朝鮮半島経由で北伝の大乗仏教が、タイにはインドから直接、またはスリランカ経由で仏教が伝わり、それぞれ6世紀後半には仏教を根幹とする文化が築かれていた。日本では天皇が仏教に帰依し、中国に留学僧を送るようになると、仏教は飛躍的に興隆し、大乗仏教の思想に基づいて国を治める国家仏教の体裁が整えられていく。聖武天皇(701 - 756)は国情不安を鎮めるために各国に国分寺を造営させ、その中心である奈良の東大寺に巨大な盧舎那仏を建立した。同時期、東南アジアにはヒンドゥー教も広まっていたが、タイ中央部では仏教信仰を中心とする小都市国家群がドヴァーラヴァティー文化圏を築き、南のマレー半島はシュリーヴィジャヤ国の支配下で大乗仏教が栄えた。
日本では8世紀末に、都が奈良から京都の平安京に遷され、新都には新しい風が巻き起こった。中国に渡った空海(773 - 835)と最澄(767 - 822)によって真言密教と最新の天台教学が伝わり、その影響を受け多くの学僧が輩出された。政治的混乱や天災の続いた平安時代後期(11 - 12世紀)には、仏の教えが衰えて暗黒の時代が到来するという末法思想が人々に浸透する。阿弥陀仏の極楽世界に成仏できることを説く浄土教が広まったのもこの時期である。政治の中心が貴族社会から武家政権へ移行していった鎌倉時代には、禅宗が興隆し、旧仏教からも実践的な仏教運動がおこり新しい宗派が次々と生まれた。仏教は武士や庶民に浸透し、多様な展開を遂げていく。この頃、タイは強大な勢力を誇ったアンコール帝国の支配下にあり、ヒンドゥー教、大乗仏教のほか後期密教が展開し、様々な尊像が信仰された。
13世紀、アンコール帝国の北西隅の要衝であったスコータイがクメール人勢力から独立する。スコータイ王は在家信者として仏教に帰依し、上座部仏教が優勢となった。以後、現在に至るまでの王権と仏教の関係が形づくられた。
『高麗史』には、1388年タイ使節が日本に来航して一年間滞在したという記録がある。しかし、日タイの交渉は、その後しばらくは琉球王国を通じての交易が主であった。琉球王国は沖縄本島を中心にした独立国で、15世紀初期から16世紀中頃まで東南アジア諸国と積極的な交易を行い、その交易品を中国への進貢に充てていた。
ポルトガル人が鉄砲を伝えたのは1543年であるが、まもなくポルトガル船の来航が盛んになると、それに刺激を受けて日本人も自ら船を仕立ててタイをはじめ東南アジア諸国と貿易を行うようになった。タイからは鹿皮や鮫皮、蘇木などが大量にもたらされ、陶磁器や漆器なども珍重された。アユタヤには日本人町が作られ、山田長政のようにタイ国王に仕えたと伝えられる日本人もいる。
1606年、徳川家康はタイ国王に国書を遣わし刀や馬具を献上した。1621年にはタイ使節が江戸に上り2代将軍徳川秀忠に謁見した。1633年から39年に発せられた鎖国令により正式な国交は衰退したが、その後もタイから出発した船は長崎に入港して交易を行い、長崎にはタイ語通訳がおかれていた。
歴史を持つ国であれば、その長い歴史とともに高い技術をもって生み出された様々な造形が存在する。歴史の中で脚光を浴び、究極の美のかたちとして昇華していくものもあれば、あまりにも普遍的であるが故に忘れられ、いつしか失われてしまったものもあるだろう。
ここではやきものと染織をとりあげ、現代に生きる伝統の美を紹介する。
日本のやきものの中で最も優美な様式として広く国内外に知られた柿右衛門様式の作品をみてみたい。江戸時代から続く伝統の技を受け継いでいくことは容易でないが、柿右衛門様式の特質のひとつ「濁手(にごしで)」の技は一時途絶えながらも、12代と13代の努力によって蘇り現在の14代の作品に生きている。現代のタイのやきものにも、セラドン焼の技術や寺院壁画の絵画表現を取り入れるなど、伝統技術が生かされている。
染織品はアジア各地に広まった絣技術を例にあげよう。庶民の衣服として愛用されてきた久留米絣と東北タイの絣マットミー。タイでは化学染料の便利さに押され自然染料による染織品が激減した時期もあった。一方、木綿に緻密な小絣やいろいろな模様の絵絣を施した久留米絣は庶民の人気を博したが、明治期には増産により粗製濫造され、一時信用を失うことになった。しかし、両者とも有志たちにより信用回復の努力が続けられ衰退の危機を乗り越え、今も高品位の絣を生産し続けている。
本章では生活や時代感覚とともに育まれ、伝えられてきた技が、新たな創造とともに現代に生きていることを見ていただきたい。