武藤資頼・資能の墓

観世音寺の北にある観世音寺四十九子院跡のひとつといわれる安養寺の跡地の一角には、武藤資頼・資能の墓と伝えられる五輪塔と宝篋印塔が並んで建っています。
大宰少弐武藤資頼の墓と伝えられる五輪塔は、凝灰岩製で一石で作られたものです。一般的な五輪塔とは異なり、水輪(真ん中の丸い部分)の形状から隅切り五輪塔に属します。この隅切り五輪塔は、大分県の国東半島に多く見られるもので、国東地方との関係の上の造立されたことが分かります。鎌倉時代中期の作と考えられ、福岡県の有形文化財に指定されています。
また、武藤資能の墓とされる五輪塔は、元々、横岳崇福寺の墓地のあったとされるもので、当該地に移される前は、五条の血方持ち観音の前にあったといわれており、南北朝時代の作と考えられています。
墓の主とされる少弐氏は、もともと武藤と称し、鎌倉時代、初代武藤資頼は筑前・豊前・肥前・対馬の守護として大宰府に下り、そして大宰少弐に任ぜられることによって、名実ともに九州支配の最高責任者となります。文永の役の際には、二代目資能は七十七歳の高齢でしたが、息子経資を助け、日本軍の先頭に立って、戦ったと伝えられています。そして次の弘安の役の折りにも出陣しましたが、その時に受けた傷が元で、八十四歳の生涯を閉じました。
これらの墓の隣には、昭和56年(1981年)、元寇七百年を記念して少弐氏を顕彰した顕彰碑が建てられています。
(太宰府市「太宰府の中世石造物」『太宰府市史 美術工芸編』 太宰府市「太宰府いしぶみ散歩」『太宰府市史 文芸資料編』より)

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武藤資頼・資能の墓

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安養院跡五輪塔(伝武藤資頼の墓)

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小五輪塔に刻まれた仏像

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宝篋印塔(武藤資能の墓)