塔原塔跡

県道31号線の塔原交差点の傍らに、古代寺院の塔心礎(塔の中心に立つ柱を乗せる基礎石)が残っています。江戸時代、貝原益軒が記した『筑前国続風土記』には、この石が「塔原」という地名の由来になっていることが記されていますし、江戸時代に描かれた『太宰府旧跡全図(北)』(個人蔵)にも、十王堂跡として、礎石が記されています。
この塔心礎は、中心に二段になった方形の舎利孔(釈迦の遺骨を納めるための孔)があるのが特徴で、このような例は、九州ではこの塔原塔跡と上坂廃寺(福岡県豊前市)の二例だけという極めて珍しいものです。
聖徳太子の伝記『上宮聖徳法王帝説』の裏書きには、筑紫大宰帥つくしだざいのそち蘇我そがの日向ひむかが白雉5年(654年)に孝徳天皇の冥福を祈って「般若寺」を建立したことが記されており、それがこの塔原廃寺のことではないかと考えられています。
また、県道31号線建設の際の発掘調査によって、山田寺系瓦との関連が考えられる軒丸・軒平瓦が出土しており、山田寺が蘇我倉山田石川麻呂の寺であったことから、蘇我氏との関連が裏付けられています。
(筑紫野市歴史博物館『筑紫野の指定文化財』より)

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塔原塔跡