基肄城跡(水門)

大宰府政庁跡から真南方向へ直線約5km、筑紫野市と佐賀県三養基郡基山町との境には、標高404mの基山があります。この基山を中心に、尾根伝いに総延長約4kmに及ぶ範囲に、古代の山城跡、基肄城跡があります。峰の頂を結び、南側に開く谷を取り込む形で、土塁や石塁が築かれ、要所要所には城跡や水門跡が設けられ、40棟あまりの礎石建物が見つかっています。

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基肄城跡の土塁(写真提供:九州歴史資料館)

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基肄城平面図


礎石建物と「基肄城木簡」

基肄城では、40棟あまりの礎石建物が城内の各所で見つかっています。中でも、西側土塁のちかくにある通称「大礎石群」と呼ばれる建物は、10間×3間の総柱式の建物で、現在基肄城で見つかっている礎石建物の中では、群を抜いて大規模な建物です。おそらく、基肄城の中心的な建物であったことは間違いないようです。
これらの礎石建物は、全て総柱式です。一般的に総柱式の建物は倉庫などの重量に耐えうるような性格の建物が想定されますが、それを裏付ける資料が大宰府史跡から出土しています。
大宰府史跡政庁前面官衙出土の木簡の一つには、「為班給筑前筑後肥等國遣基肄城稲穀・・(以下略)」とあり、基肄城に貯蔵されていた米を筑前・筑後・肥前・肥後等に分け与えたことを示しています。山城の倉庫が備蓄用であったことを示しており、見つかっている総柱の礎石建物の多くが、このような備蓄用倉庫であったと考えられます。

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大礎石群

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米倉礎石群

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大礎石群

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丸尾礎石群


城門跡と南水門跡

城内には、北側に2箇所と南東側に1箇所の城門跡が確認されています。南側には非常に大きな水門があります。また、南水門のすぐそばには、城門が推定されるような道路がありますが、かつてここに城門があったかどうかは未確定です。
城門跡の中で、唯一門礎(城門の礎石)が確認されているのが東北門です。扁平で長方形の石に円形の刳り込み孔が穿っており、門の幅約1.9mのやや小型の城門であったことが分かります。門の両側には、土塁が取り付き、門の付近は石塁で固められています。また、東北門よりも北帝門跡の方が立派だったようですが、未調査であるために詳細な構造は分かっていません。
南水門は、基山の南側の谷を塞ぐように構築されており、石塁の残存幅約26m、高さ約8.5mと非常に大きな石塁が造られていました。その石塁のやや右よりの下には、谷を通る川の水を通す水門が造られています。現在、川の水の多くは崩れた水門石塁の横を流れていますが、一部は今でも水門を流れています。
水門の長さは約10mにも及び、その構造は横穴式石室を思わせるものです。他の古代山城の水門と比較しても非常に大規模で保存状況も良好なものと言えます。

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東北門

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北帝門跡石垣

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南水門水口

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南水門跡


天水溜り跡

城内を巡る土塁上には、東西2箇所、「つつみ跡」と呼ばれる直径10m程の窪地があります。これは、おそらく天水溜りと考えられています。山城である以上、籠城に備え、水資源の確保を考えたものだったのでしょうか。同じく大野城跡にも、土塁上に鏡ヶ池と呼ばれる擂り鉢状の溜め池があり、現在も湧き水をたたえています。基肄城のつつみ跡もかつてはこのような光景だったのでしょうか。

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つつみ跡(天水溜まり)

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大野城跡の鏡ヶ池


いものがんぎ(坊中山城跡)

西側の土塁、基山山頂近くには、「いものがんぎ」と呼ばれる凹凸地があります。これは、古代山城のものではなく、戦国時代の山城に付随する4本の連続する堀切です。堀切とは、戦国時代の山城に一般的に見られる防御施設で、主郭(中心的な曲輪)に至る山の尾根を横方向に大きな溝を掘り、尾根からのルートを遮断しようとするものです。
戦国期の山城は、基山の山頂を主郭とし、その周りには横堀を巡らした戦国時代末期の高度な防御施設を備えた山城であったようです。城主ははっきりとは分かりませんが、おそらくその場所や城郭の構造から、鳥栖市勝尾城に本拠を構えていた筑紫氏の持ち城であったと思われます。

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いものがんぎ(奥の高まりが戦国山城の主郭跡)


関屋土塁ととうれぎ土塁

基肄城の南東側の麓には、関屋土塁ととうれぎ土塁とよばれる2つの土塁があります。共に、鳥栖、久留米方面から太宰府方面へ抜ける場所に辺り、大宰府防衛において、小規模な谷を塞いだいわゆる「小水城」とも呼べるものです。
現在、関屋土塁はほとんどその痕跡を残していません。その一方、とうれぎ土塁は現在も若干ではありますが、その高まりを残して保存されています。

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とうれぎ土塁