水城跡(水城ゆめ広場)

福岡平野から太宰府に入るちょうど入口にあたる太宰府市の水城から吉松にかけての地域には、ちょうど平野を横切る形で、長さ約1.2kmの特別史跡水城跡があります。『日本書紀』にも、西暦664年に対馬・壱岐・筑紫国に防人と烽(とぶひ)(のろし台)と共に設置された大宰府を防衛するための防塁でした。

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水城跡


土塁と敷粗朶(しきそだ)

水城は、大きく土塁と外濠からなっています。土塁の形状は、全長約1.2km、基底部幅約80m、高さ13mで、両端部の一部を除いて、ほぼ全て人工の盛土で造られています。堤の構築にあたっては、版築はんちくと敷粗朶しきそだという工法を採っています。版築とは、少しずつ粘土や砂などを交互に敷き詰めて、棒状の叩き道具で突き固めながら盛っていく工法で、急峻な傾斜にも耐えうる強固な堤を盛ることができます。また、敷粗朶は土塁の下部の軟弱な地盤の箇所に、植物の葉や枝を敷き詰めて透水性を良くして基礎の滑りを押さえる工法です。共に、当時の朝鮮半島の技術を導入したもので、最先端の高度な技術でした。
また、土塁は、本体の両側にそれぞれ基底部を設けることで、急峻な土塁本体を一気に積み上げることを可能としました。
(九州歴史資料館『大宰府復元』より)

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版築と敷粗朶(写真提供:九州歴史資料館)


外濠と木樋

『日本書紀』には、「大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城といふ。」と記されており、水城には堀があったことが推測されていましたが、これが水城のどちら側のことを指しているのかは、長年論争が続いていました。しかし、昭和50年(1975年)の発掘調査において、博多側(外側)に推定幅約60m、深さ4mの大規模な堀が確認され、論争の決着を見ました。堀の規模や構造については、未確定な部分もありますが、博多側にかなり大きな堀があったことはまず間違いないようです。
また、この外堀に、太宰府側(内側)から水を送った施設、木樋もくひが水城の中で、現在、御笠川の東側で1箇所、西側で3箇所、計4箇所で確認されています。
木樋とは、土塁の内部を大きな木で組んだ導水管によって、水を通す役割を果たすもので、その規模は内法で幅約1.2m、高さ80cmで、底板は2枚の板を長さ25cmもの大きさの鉄製の鎹かすがいで留めています。
吐水部側(博多側)の構造については、未だよく分かっていませんが、取水部側(太宰府側)については、発掘調査によって、導水管とは直行する形で箱形の溜桝が置かれており、ここから水を送水したと考えられています。
(太宰府市『太宰府市史 考古資料編』ほかより)

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水城跡の木樋(写真提供:九州歴史資料館)

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水城跡木樋取水口(写真提供:九州歴史資料館)

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木樋取水口部分(写真提供:太宰府市教育委員会)

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水城跡木樋取水口部分(写真提供:九州歴史資料館)


城門と礎石

水城には、御笠川を挟んで東と西に1箇所ずつ城門が設けられていました。東門側は現在の旧3号線が通る箇所で、門礎とされる礎石が1個現地に残されていますが、詳しい構造については分かっていません。かつて、その礎石は鬼の硯石とも呼ばれたものでした。

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東門礎石

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筑前名所図会に描かれた東門礎石(福岡市博物館蔵)

その一方で、西門部は発掘調査の結果、III期にわたっての変遷が判明しています。西門は、水城が築造された7世紀代は、瓦も葺かれない掘立柱式の門柱2本で扉を支える冠木門で、非常に軍事的な様相を呈していたのに対し、8世紀以降になると、瓦葺きで八脚の礎石門となり、軍事的な機能よりも、外国使節を饗応する役割を担う大宰府の表玄関としての機能が重視されていったと考えられています。

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水城西門跡(写真提供:九州歴史資料館)

また、東門跡のそばには、大正天皇の大典を記念して、水城を誇りに思う地元の青年会が建てたもので、水城土塁の正確な実測結果を刻んでいます。
(九州歴史資料館『大宰府復元』より)

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水城大堤之碑


水城経塚

西門跡の東側の土塁上からは、発掘調査により3基の経塚が見つかっています。内、1基は未盗掘で、経筒や副納品が見つかりました。
経塚の中からは、青銅製の経筒、経筒の瓔珞ようらくと思われる金属・ガラス製の垂飾品、2本の短刀が見つかり、経筒の中からは、お経の軸と思われる木製品7本が出土しました。12世紀頃のものと考えられ、水城の後世の利用方法などが推察する上で、重要な資料であると言えます。
(九州歴史資料館『大宰府史跡 平成8年度発掘調査概報』より)

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水城経塚


日菅上人と水城跡

水城跡は、7世紀に築造されたことはまず間違いのない事実ですが、現在でも水城周辺の住民の間では、水城は鎌倉時代の元寇の際に築造されたものとの認識が根強くあります。
実際、当時の文献を見ますと、蒙古軍が襲来してきた文永の役の際に、博多を撤退した日本軍は太宰府、すなわち水城の辺りまで退却しています。しかしながら、その時に水城を築造したわけではありません。
では、なぜ元寇に際して築造されたと考えられたのでしょうか。一つには、文永の役の後、日本軍は元寇に備えて博多湾沿岸に元寇防塁を築きます。その遺構は現在も博多湾沿岸の何カ所かで確認できますが、その事実と水城の防塁とが混同された可能性があります。
それともう一つこのような説が流布したことに欠かせない人物がいます。大宰府政庁跡の北側には日菅寺がありますが、これは明治時代に日菅上人が開いた日蓮宗の寺院です。この日菅上人が活躍した時代に日本の将来を左右する日露戦争が勃発したのでした。
日露戦争は近代日本が初めて、ロシアという西洋列強の大国を相手にした戦争で、当時の人々はまさに鎌倉時代の元寇以来の国難と受け止めていました。日菅上人は、この国難を乗り切るためには、蒙古襲来にかかわる人物や文化財の顕彰が重要であると考え、東公園(福岡市博多区)にある日蓮上人の銅像建立の中心的役割を果たした人物でもあります。その一貫として水城跡の前に立ち、行き交う人々に対して、元寇の際に築造されたとする水城の重要性を、「憂国士よ、しばし車を停めよ。」と呼びかけ、説いたのでした。
もちろん歴史的事実とは異なるものであり、またナショナリズムを促す行動とも捉えられますが、文化財の重要性を訴えるという視点は誤りではなく、また日菅上人は大宰府政庁跡の保存の重要性を訴えるなど、今日の史跡保存活動の先駆けとも評価できる業績といえるのではないでしょうか。
(鏡山猛『大宰府遺跡』より)

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日蓮上人銅像(福岡市博多区東公園 福岡県指定有形文化財)


ひともっこやまと父子嶋

水城跡の博多側には、東門の付近には、「ひともっこやま」、西門の付近には、「父子嶋」とよばれる小高い丘があります。「ひともっこやま」は、現在は消滅してしまいましたが、ともに、同じような伝説が残されています。その伝説とは、水城を築造していた人々(父子嶋の場合は父子)が、水城の土塁を盛るためにもっこに土を入れて運んでいましたが、もう少しで水城に辿り着くところで、水城が完成したとの歓声を聞き、その場にもっこの土ともどもへたり込んでしまい、その土が小高い丘になったというものです。
単に伝説にはすぎず、本当に水城と関連があるかどうかは分かっていませんが、この2つの丘の場所が、共に門の外側付近に置かれていることなどから考えても、もしかしたら水城に関係する施設の痕跡かもしれません。
(太宰府市『太宰府市史 民俗資料編』より)

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父子嶋