大野城跡(駐車場)

大宰府政庁跡の背後には、標高410mの四王寺山があります。この四王寺山は北側に大きな谷を取り込んで、尾根線が巡っていて、馬蹄形を呈しています。この尾根と谷をつなぐように、総延長6.5kmもの土塁線を持つ特別史跡に指定されています古代大野城跡が築かれていました。土塁の他、城門跡、石垣、70棟あまりもの礎石建物や掘立柱建物が見つかっており、7世紀後半に造られた朝鮮式山城です。

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大野城跡


石垣(百間石垣)

大野城の土塁の各所には、石垣が築かれていました。山中には、北石垣・小石垣・大石垣・水の手石垣などがありますが、中でも百間石垣(宇美町)は延長約180mで、大野城の中でも最も規模の大きい石垣です。
百間石垣は、四王寺川を塞ぐように流路とほぼ直交に構築されたもので、発掘調査の結果、基底部の幅約9m、高さは最も良好に保存されている部分で約8m、花崗岩の自然石を積み上げて構築されています。外壁面の傾斜は74〜76°と非常に急峻で、内側はそれよりもやや緩やかになっています。
内外の壁面の間には、人頭大の礫が詰め込まれています。
また、百間石垣の四王寺川のそばには、現在道路が通っていますが、その場所からは、昭和34年(1959年)と昭和48年(1973年)に門礎3個が発見されており、この場所に、当時城門が築かれていたことが分かります。
なお、このような石垣の長城ラインを形成する技術は朝鮮半島から伝えられたもので、同時期の朝鮮半島にも、同様の多くの山城が築かれていました。
(太宰府市『太宰府市史 考古資料編』ほかより)

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百間石垣(写真提供:九州歴史資料館)

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朝鮮半島の山城(三年山城)(写真提供:九州歴史資料館)


城門跡

土塁や石垣に囲まれた城内へは、城の各所にある城門から入っていきました。現在、城門跡は、坂本口、水城口、太宰府口、宇美口(百間石垣)など6箇所で確認されていますが、今後もさらに発見されて、数も増えていくかもしれません。
城門の中で、現在最も遺構が残っているのは、太宰府口城門(太宰府市)です。この城門は大野城の南側の外郭土塁に設けられたもので、発掘調査が行われています。
発掘調査の結果、築造当初は、掘立柱形式の城門で、その柱穴からは、良好な状態でヒノキの柱根が検出され、年輪年代法による分析の結果、西暦628+α年という結果が出ており、日本書紀の記述に合致することが分かりました。その後、奈良時代以降に礎石建物の櫓門風の城門に建てかえられています。
(太宰府市『太宰府市史 考古資料編』ほかより)

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百間石垣出土門礎(現在は県民の森にあります。)

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太宰府口城門と水ノ手口石垣(写真提供:九州歴史資料館)


礎石建物群(主城原地区礎石群)

大野城では、約70棟あまりもの礎石建物群が見つかっています。それらは城内各所7つの群に分かれており、中でも主城原地区の礎石群は最も大規模なものです。
主城原地区(宇美町)は、城内の中央部よりやや北寄りの場所にあり、小さな尾根上に礎石が散在しています。弘仁14年(823年)には、大野城を管理する官司の一員として「大主城」が新設されているのが文献に見ることができますが、地名の「主城」との直接の関連はないようです。
この地区では、発掘調査により19棟もの礎石が確認されています。通常、大野城内の建物は、礎石の総柱式のもので、倉庫のような機能を果たした建物であるとされていますが、主城原地区では、基壇を伴う礎石建物や掘立柱式の総柱ではない官衙風の建物が検出されており、大野城の管理中枢部的な性格を有していた地区であったとも考えられます。
年代については、最下層の掘立柱建物の柱穴から出土した百済系軒丸瓦が7世紀後半のものと考えられ、日本書紀記載の西暦665年築造とさほどの開きはないようです。
(太宰府市『太宰府市史 考古資料編』ほかより)

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主城原地区礎石建物(写真提供:九州歴史資料館)

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主城原地区掘立柱建物(写真提供:九州歴史資料館)


四王院と毘沙門天詣り

四王寺山の名前の由来は、奈良時代に立てられた「四王院」に由来するとされています。
四王院は、宝亀5年(774年)に新羅の宗教的呪詛に対抗するために創建された寺院で、現在、大野城の土塁線上には四天王である毘沙門天、広目天、増長天、持国天と呼ばれる地域があります。それぞれの地域から礎石建物や井戸などが見つかっており、四王院との関連が考えられています。しかし、創建当初まで遡るような遺構は見つかっておらず、その実態は謎に包まれたままです。
その四王院の跡地の一つ、山頂にある「毘沙門」には、現在、毘沙門天を祀る御堂が建てられており、古代の四王院とは直接的な関係はありませんが、毘沙門天が祀られています。この毘沙門天には、毎年1月3日には、毘沙門天詣りという行事が行われており、宇美町の無形民俗文化財に指定されています。
毘沙門天詣りには、宇美町の他、太宰府市、大野城市など近隣の人々が参拝に集うもので、毘沙門天にその年一年の幸運を祈るものです。
毘沙門天まいりには、面白い風習があります。毘沙門天まいりの日に毘沙門天からお金を借り、その翌年に2倍にして返せば、お金に困らず、金運に恵まれるというものです。
毘沙門天は、四天王の一神である多聞天の別名で、北方世界を守護する神です。後に、七福神に名を連ね、財宝を守る神として信仰されるようになりました。
(太宰府市『太宰府市史 民俗資料編』ほかより)

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毘沙門天

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毘沙門天詣り(2004年1月3日撮影)


7.19水害による被害と土塁・城門跡の修復

平成15年7月19日未明、太宰府地方は時間降水量99mmという観測史上最大の豪雨に見舞われました。御笠川は決壊し、山々は崩れ、甚大な被害をもたらしたのでした。
太宰府にある史跡や文化財などもその例に漏れず、水城跡では土塁が崩れて民家を直撃するなど、大きな被害を蒙りました。特に、四王寺山の大野城跡の被害は甚大で、山中の崩壊箇所はゆうに500箇所を越えました。一番被害を受けたのは、百間石垣に次いで大野城内第二の規模を誇っていた石垣である大石垣で、長さ約64m、高さ約8mを誇っていたその姿は一晩の内に流れ去ったのでした。
その被害の状況を受け、太宰府市教育委員会と福岡県教育委員会など関係各市町では、平成16年度より五ヶ年計画で、大野城跡の修復に乗り出しました。16年度は太宰府口城門跡と尾花・原地区の土塁を修復しました。今後、大石垣をはじめ、被害を受けた大野城跡の主要な遺構を修復していく予定になっています。

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発掘調査時の大石垣(写真提供:九州歴史資料館)

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崩落した土塁の修復整備の状況(写真提供:九州歴史資料館)

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崩れた大石垣(2003年10月)(写真提供:九州歴史資料館)