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博多埠頭から高速艇「ジェットフォイル」の船客となり、1時間もすれば壱岐市の港に接岸される。この島は対馬と博多の潮間に位置し、紀元前後の弥生時代には「一支国(いきこく)」と「魏志倭人伝」に記された。「原の辻(はるのつじ)遺跡」は島の東南部で発掘され現在も調査が進められているが、多くの多彩な土器、装身具や鉄・銅製の武器に混じり、中国前漢の貨幣なども出土し、海路での大陸との長期にわたる交流が立証されている。「船着き場跡」では造船や突堤造りの技術水準の高さが偲ばれてまことに興味が尽きない。 埋蔵文化財のコーナーに「犬」や「魚」とともに「ウニ」の遺骸が展示されている。漢字が導入される奈良時代では、「ウニ」は「宇迩」「宇尓」「蕀甲羸」などと木簡で表され、中世期になると「海胆」「海栗」と書き、俗に「ガゼ」とも呼ぶが、壱岐では「ガゼ」は「バフンウニ」を指す。このガゼと鶏卵を溶かし入れ、塩味で「ウニの厚焼き」を作り三月節句の時に食す。「アカウニ」は6月解禁、それまでは「ムラサキウニ」が黒ウニの名で「生ウニ飯」の食材となる。肉厚は「アカウニ」が勝るものの、磯の強い香りを載せた黒ウニ飯はシンプルながら贅を尽くす一品である。郷土料理の「太郎」にはもてなしの「ひきとうし」鍋がある。地元麦焼酎と地鶏にゴボウでスープ汁を作り、この汁で壱州豆腐や季節野菜そしてソーメンを食す。砕いた氷「クラッシャー」に麦焼酎を注いでロックで飲む。さわやかな美味さ再発見である。
ウニは「雲丹」とも呼ばれる。「丹」は古来より赤色を意味し、「雲丹」はウニの卵巣の塩辛のことである。塩辛は平安朝期以前からの保存食のひとつであり、ナマコの腸でつくる「海鼠腸(コノワタ)」やアユの「うるか」などの記録が残されている。ところで、ウニは食すにまことに美味にして芳香豊かであるが、10m以上の深海からの採集は、日本海域の制海権を持った「海人」が遺す名人技である。島内に建立された壱岐住吉神社は、当地の海人族「住吉連(すみよしむらじ)」とともに「宗像連」など海人族の総本宮という。 この壱岐住吉神社から郷ノ浦に向けて車を走らせると、まもなく麦焼酎発祥の地、「壱岐焼酎」の蔵元に着く。明治末の自家醸造禁止までの55の醸造場が、現在では7つの焼酎蔵にまとめられている。島内では16世紀以来焼酎が自家醸造されて飲まれていたという。なだらか丘陵地形に加えて豊かな伏流水が大麦や大豆などの穀物を育て、焼酎の主原料を提供している。では、蒸留技術はいつ、のようにして壱岐に伝えられたか。玄海酒造の社長であり、『壱岐焼酎』の書を著している山内賢明は、韓国の蒸留器「かぶと釜」の共通性をもとに、伝統的焼酎醸造を有する安東(アンドン)焼酎を「壱岐焼酎のルーツ」としている。蒸留器はイスラムペルシャを源とし、西に動いてスコッチウイスキーに、南へはシャムの国で蒸留酒に、東には中国を経て北へと伝わり、蒙古「元」は蒸留酒を抱えて前進基地安東まで運ぶ。また、「元」は済州島を家畜放牧地として優良種を放つ。これが朝鮮半島の肉食への転換期となり、壱岐にも牛種とともに蒸留技術が伝えられたのであろう。 芦辺港に近接する「味処うめしま」は、自家経営の牧場から安全で新鮮な肉を提供する。「壱州牛」のうまさをたっぷりと堪能できるのがうれしい。「壱州牛」は、もともと役牛としてエコロジカルな資源の循環を媒介してきた。ワラや穀物、そして米と大麦の焼酎カスは牛の飼料に、牛糞は畑の肥料として農地を潤す、という具合である。2010年に島内に新博物館がオープンする。そのオープンに合わせた「一支国」まちづくりが、環東シナ海文化の交流促進を促す事業であることを期待したい。
沖縄の食と泡盛から始め、九州を北上して壱岐の食と焼酎で区切りを得ました。執筆にあたっては可能な限り現場取材を心がけました。そのお陰で思いもかけない発見もありました。限られた誌面のなかで可能な限りでの情報発信に努力したつもりです。ただ、掲載途中で入院や海外出張のために原稿執筆が遅れ、申し訳なく思っています。 沖縄の泡盛から蒸留を学んだ薩摩焼酎が南回り文化とすれば、壱岐焼酎は大陸・半島経由での焼酎づくりですから、北回り文化の代表と呼ぶことができます。蒸留酒としての手間をかけて焼酎を造る、というこだわりの先にそれぞれの地域の「文化」が見えてきます。現場に伺うのは、このこだわりの「なぜ」に回答が欲しいからです。「なぜ」を包む風景に向かってこの旅はまだまだ続きそうです。いずれ、書面で、誌面で、あるいはどこかの焼酎蔵でお目にかかれますならば、まことにうれしく思います。 |