イメージろじ[路知]
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イメージ 連載:焼酎と食のアンサンブル〜九州・沖縄〜 第四回
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イメージ 豊田謙二
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イメージ海路の結ぶ長崎と鹿児島
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 食材は多彩にしてしかも日ごとに豊かになる。だが、外来の食材がその地の食として定着するには時を待たねばならない。まず食卓に載ることが大切であり、それには加工や調理の技法が重要である。中南米を原産とするサツマイモは、16世紀末に平戸と種子島に伝えられた。サツマイモはジャガイモに比べて甘みが強く、食卓に載せるには調理の工夫が必要であった。長崎にはカンコロモチ、鹿児島にサツマイモ揚げがある。
 長崎と鹿児島は地形的に遠く感ずるが、意外に共通するものが多い。焼酎ではムギ製の壱岐焼酎とサツマイモ製の薩摩焼酎が、ともに長い醸造の歴史を持つ。壱岐焼酎は北回りで、薩摩焼酎は南回りでその蒸留技術が導入された。北松浦でイモ焼酎、近年には天草市の倉岳町でシモンイモによる焼酎が開発され、ヘルシーで上品な味わいが好評である。
 豚の料理も共通の郷土食である。仏教伝来による肉食禁断の詔は730年(天平2年)であり、肉料理の伝統が途絶えるが、その仏教圏外の長崎唐人街や薩摩の町家では肉類の料理が継承されていたようである。鹿児島の商家には、いまでも正月の雑煮を猪で料理する伝統があるという。郷土食として知名度の高いのは、長崎の角煮であり鹿児島の豚骨(トンコツ)である。チャンポンはご存知長崎を代表する麺食であるが、そのスープに豚肉の旨味と多彩な野菜とを合わせるのは良く知られている。
 魚介類はともに海の恵みを得て豊穣、面白いのはともに魚の揚げ物を特産として有することである。長崎では長崎天ぷら、鹿児島では付け揚げ(さつま揚げ)である。麺類ではチャンポンと薩摩ラーメンと、麺文化へのこだわりが伝えられている。砂糖を鎖国の時代に確保できたために菓子類も豊富である。たとえば、カステラとカルカンである。

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とんこつ(撮影:佐藤智彦)
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さつま揚げ(撮影:佐藤智彦)
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チャンポン(撮影:スタジオ ライズ)
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豚の角煮(撮影:スタジオ ライズ)
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 新しい時代の扉を開けるには、新しがり屋の好奇心と挑戦する精神が必要である。薩摩藩25代島津重豪はその食道の達人である。それを物心両面で支えたのが海商王第八代の浜崎太平次であろう。太平次は鹿児島を拠点に松前、大阪、長崎などはもとより、中国、アモイ、ジャワとの交易網を築いていた。ただし、それは幕府禁制であり、今流に言えば薩摩藩密貿易担当大臣である。
 『薩摩藩史』によると、重豪は1784年(明和4)5月、前年同様出府途上に黄檗宗の宇治万福寺を参詣する。重豪には方丈で普茶料理が、従者には別の間で小食が饗応された。普茶料理は野菜を食材とした精進料理であり、テーブルを四人で囲み大皿の料理を各自で小皿に取り分けて食す。万福寺は今日でもこの食作法を継承し、そこに皆で分け合う「平等」の精神を盛り込む。重豪はこの料理をすっかり気に入り、藩の芝邸でも客を遇するに普茶料理を供したという。
 明和八年五月に、重豪は江戸からの帰途長崎に従者千余名とともに旅するが、重豪は新築の藩邸に投宿し、従者は数カ町に分散し二週間程滞在したというから町内は大騒ぎであったろう。重豪は唐通事平野氏の別宅で饗応されたが、その料理が卓袱料理であった。卓袱料理の食作法は普茶料理と同じであるが、卓袱は肉類を中心としたもので、当時の一般家庭では食すどころか、想像を絶する食卓の内容であったはずである。この時の献立は残っていないが、重豪はこの料理にも食指を動かし、1824(文政7)年頃江戸藩邸で卓袱料理をもてなした記録がある。出島も訪ね、オランダ船ブルグ号の船内を視察している。ここでもオランダ式の昼餐を快くいただく。重豪はこの年1771年に、卓袱料理で中国を、ブルグ号でオランダを意識したのである。
 白砂糖造りなどの技術をオランダに学ぼうとする斉彬が登場し、藩を挙げて倒幕に進むのは、これからおよそ五十年後のことである。鎖国のなかで長崎・薩摩を窓口に、九州はすでに開国から新世界の道程への準備が始まっていたのである。