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「焼酎」、この文字が最も早く確認できるのは1559年(永禄二年)である。大航海時代の最中、薩摩・豊後・長崎にしばしば南蛮船が出入りしていた頃である。現在の鹿児島県の大口市、その郡山八幡神社屋根裏から「焼酎」の文字を書き込んだ木札が発見された。1970年のことである。その解説を、酒文化の研究者坂口謹一郎博士が、「焼酎 - 日本の酒の盲点 - 」のタイトルで「世界」に掲載した。 それは不満の訴えとして、いつまでも語り伝える意図を持って残されている。その内容は、「座主が大変なけちなために、焼酎を一滴もいただけず、実にけしからん」、というものである。建物の棟上げに際して一献を提供するのは神との直らいであるが、その習慣がうかがえて面白い。この木札は「作次郎・鶴田助大郎」の署名入りであるが、当時漢字を自由に駆使できる層と言えば、僧や宮大工であろうか。この社会層のなかで「焼酎」の漢字が定着していたのであろう。もっとも、当時「焼酎」が広く愛飲されていたと仮定すると、この一件だけに「焼酎」の文字を遺されていたというのは、まことに奇異である。
1898年(明治31年)に自家用醸造が禁止されるが、それまで薩摩では自家用に焼酎を醸造していた。ただし、醸造とは言っても日本酒やビールなどとは異なり、焼酎は蒸留酒であり特別な蒸留器を必要としていた(写真参照)。禁止は、国税たる酒税の増税を目的とするのであるが、そのためには酒税を納めうる規模の酒造場の育成が急務であった。酒は造るものではなく購入するものであることを徹底し、納税できる酒造場が「業」として成長するのを目的とする。これ以降、酒類製造や酒類産業がもっぱら税務対策の対象に位置づけられるが、それ故に地場としての焼酎産業育成に向けた自治体の関わりが封じられてしまう。これではドイツの世界的ビール祭り、「オクトーバーフェスト」に倣えない、これが第二の不思議である。 焼酎づくりは自家醸造から産業育成へと転回するが、産業化は購入されることを想定せねばならない。ここに、焼酎の品質向上が重大な課題として浮上する。二つの動きが注目される。一つは工業試験場の設置による技術開発・指導である。いまひとつは焼酎杜氏組合の結成である。1924年(大正13年)に鹿児島県の「加世田杜氏組合」が結成され、その数年後に「阿多村酒造杜氏組合」と「黒瀬杜氏組合」に分かれる。この組合は、その先駆者が泡盛の醸造技術を学び、出稼ぎ者の近親者にその焼酎醸造技術を伝えたことに始まるという。1930年(昭和5年)に作成された「阿多村酒造杜氏組合規約」だけが今日に残されている。クローズド・ショップに基づく明快な組合規約である。この優れた規約はだれが、どのようなモデルを参考に作成したのか、第三の不思議である。 明治期では酒税は地租とともに国税の主たる税収であり、その増収政策は苛烈を極めた。その点については拙著で詳しく紹介してあるので、ここでは割愛しよう。第二次大戦後には、1953年(昭和28年)に酒税法が全面的に改正された。「酒税法」においては、焼酎は「しょうちゅう」と表示され、「アルコール含有物を蒸留した酒類」と定義されている。そこで「アルコール含有物」の内容が問題となる。それは以下の条件を満たすものである。 〔1〕発芽した穀類(ウイスキーの原料)を使用していない 〔2〕白樺の炭(ウォッカの製法)などで濾過していない 〔3〕蒸留時に別途定められている物品以外(例えば、ユズ:ジンの製法)を添加しない 〔4〕アルコール度数が所定(乙類:45%以下)を下回る ただし、酒税法は「焼酎」の漢字を避けて、終始「しょうちゅう」と表示する。なぜカナ表記なのか、第四の不思議である。 焼酎は1995年から酒税を巡る貿易紛争の渦中に置かれた。わが国は敗訴し、焼酎の税率が引き上げられ、逆にウイスキーなどの酒税が引き下げられた。この酒文化紛争で再認識したのは、わが国では焼酎など蒸留酒も「食卓酒」として楽しまれていることである。つまり、蒸留酒は欧米では食後にストレートで飲むのであるが、わが国では食事をしながら、しかも焼酎を氷やお湯で薄めながら飲むことである。この食卓酒の伝統が第五の不思議である。食文化の楽しさと豊かさが、この食卓酒の伝統のなかにも生き続けているのである。次回以降は、焼酎と食の絶妙の組み合わせに乾杯することにしよう。
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