ろじ[路知]
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連載:九州蘭学紀行 〜西洋にあこがれた大名たち〜 第一回

井上 淳

オランダ語辞書をつくった大名、奥平昌高

 「フレデリック・ヘンドリック」という名前を聞くと、どんな人物が思い浮かぶだろうか。彫りが深い顔に、高い鼻、茶色い髪。江戸時代の人物だとすると、西洋で唯一国交があったオランダ人が思い浮かびそうであるが、答えはさにあらず。実はこの名前の人物は、中津藩主奥平昌高(まさたか)、れっきとした大名である。



奥平昌高画像[自性寺所蔵]

 昌高は、天明元年(1781)11月4日に鹿児島藩主島津重豪(しげひで)の次男として江戸で生まれた。父親の重豪は17,8歳の頃より蘭学に興味をもち、歴代のオランダ商館長と親交を深め、オランダ船を見学したりしている。西洋の文物を集め、自らアルファベットを書き記した蘭癖(らんぺき)大名のはしりともいえる人物である。重豪は藩校の造士館、武芸稽古場の演武館、医学館を設立し、藩士の教育普及に努めるとともに、五十年以上もの歳月をかけて博物百科図鑑ともいえる『成形図説』を編纂させるなど、文化事業に力を注いだ。昌高はこの父親に大きな影響を受けて、蘭学に親しむようになったものと思われる。
 天明6年に中津藩主奥平昌男が亡くなったことにともない、昌高は奥平家に養子に入り、わずか6歳で家督を相続している。長じるにつれて父親と同じくオランダ趣味を募らせ、江戸鉄砲洲の中津藩中屋敷にはオランダ部屋が設けられガラス障子をめぐらし、座ったままで江戸湾の風景をながめることができたという。また、長崎に藩士を派遣して価格を問わず、舶来の時計や磁器などを買い求め、オランダ部屋を飾った。昌高はヅーフ、ブロムホフら数代のオランダ商館長と親交を結んだが、冒頭の「フレデリック・ヘンドリック」というオランダ名前はズーフから贈られたものである。



奥平昌高ヘンドリック蘭文[早稲田大学図書館所蔵]

 文政6年(1823)にシーボルトがオランダ商館付の医者として来日すると、昌高はシーボルトとも交流を深める。文政9年にシーボルトがオランダ商館長スチュルレルに従って、江戸参府した時の日記が『江戸参府紀行』として平凡社東洋文庫から刊行されているが、巻末の人名索引を見ると、昌高は「中津侯」として15回登場している。これは日本人としては最も多い登場回数となる。
 昌高がシーボルトに初めて会ったのは、4月10日(旧暦3月4日)である。昌高はこの日父親の重豪とともに大森(東京都大田区)まで行き、シーボルト一行を出迎えている。シーボルトは重豪のことを84歳の年寄りだが、たいへん話し好きで目も耳も衰えておらず、せいぜい65歳にしか見えないと記している。また、重豪は動物や天産物の愛好者で、鳥獣を剥製にする方法や昆虫を保存する方法を習いたいと話したことも書き留めている。次いで昌高については次のように記している。

 中津侯は、私の手をとって次のようなオランダ語ではっきりと言われた。「ドクトル・ジーボルト、私の方へ来たまえ。手紙と贈物をありがとう」と。
 それから彼は通詞を介して長々とした会話を始め、私の懐中クロノメーターのことをたずね、私の肩章をみてその意味を問いただした。政策上私は階級を示す徽章であると述べた。私はおりがあれば、剣を帯びる資格があることをこの人にほのめかして、わざわざ剣帯を着けていた。すると彼は好奇心をもってその意味をたずねたので、これは私の剣帯で、いつも皇帝陛下の軍職にあるうちは剣をさげなければならないことに留意してこの剣帯をしめている旨を、説明した。その間に砂糖菓子や焼菓子が大名がたの前に出され、交互に言葉を交わすうちに、われわれが江戸に滞在中、表向きの身分を名のらずに訪ねたいというありがたい約束の言葉を賜わり、まもなくお別れした。(『江戸参府紀行』186ページ)

 シーボルトと昌高は初対面から打ち解けた様子で会話をしている。そして、シーボルト一行が江戸に滞在中には、身分を名のらずに訪問することを約束している。昌高は約束を違えず、以後単独で4回、重豪と連れだって1回、シーボルトのもとを訪れている。そのうち、シーボルトが昌高の様子を最もよく記しているのは、初対面の翌日4月11日の晩のことである。シーボルトの江戸参府の前年にあたる文政9年に昌高は隠居し、二男の昌暢に家督を譲っているが、そのあたりの事情についてシーボルトは、昌高が大名という立場だとオランダ人と親しい関係を結ぶことができないと考えて隠居したと記している。昌高は大名という立場よりも、自らの西洋趣味を優先させたということになる。
 この日シーボルトは、万事ヨーロッパ流に昌高を迎える準備を整えているが、具体的にはヨーロッパの学術博物館のように、部屋に器械類や書籍などを陳列したとある。昌高はそのなかで小型ピアノ、クロノメータ、顕微鏡などを興味深そうに見たが、それらについて既に的確な知識をもっていたという。自らもいろいろなタイプの時計を取り出してシーボルトに見せているが、そのうちの一つに、十進法の文字板に金属性の調節装置を備え、さらに寒暖計までついたものがあり、その高度さに逆にシーボルトの方が驚かされるという一幕もあった。5回の対面は昌高を十分に満足させたようで、5月18日にシーボルト一行が江戸を出発し、長崎に向かう時には、昌高は大森で見送りまでしている。
 また、『江戸参府日記』には、シーボルトが江戸参府途中の下関で見た昌高とオランダ商館長であったブロムホフとの交友を物語る文書も紹介されている。それは、ブロンホフが昌高に贈った詩と、昌高が返した短い詩で、いずれもオランダ語で記されていた。それぞれを紹介すると次のような内容である。


ブロンホフの詩

中津の殿、フレデリック・ヘンドリック侯に捧ぐ。使節として参府旅行の途上にて
下名より
わが友よ私が再び貴下の国に参った時
私の心は美しく純な言葉にどんなに感動しことでしょう
詩にうたいみずからの手で記して
殿よどんなに貴下のオランダ語がすばらしいかを示しています
私の国ではありふれたことが
どれほど貴下を楽しませ
この言葉には貴下のこころばえと感じる心があふれています
これに比べられるものはどこにも見当たりますまい
私は願います他の友と手をたずさえてこの道を進み給えと
オランダのしきたりをあくことなく求める心を失わない熱情
それを乞い絶えずそれを願うはオランダの商館長
J・コック・ブロンホフ
下関にて1822年2月28日(正しくは18日)

奥平昌高の詩

私はそのひとりだ
オランダ貿易の繁栄を望む者の
フレデリック・ヘンドリック
中津藩主


 これらの文書は、昌高のひたすらに西洋文化を求める情熱と、オランダ語能力の高さを示している。昌高自筆の蘭文には、他に早稲田大学図書館に伝わっているものがある。訳は「春来りて万国に花開く」というものであるが、達筆なオランダ文字が紙面におどっている。
 このような昌高のオランダ語への関心は、『蘭語訳撰』というオランダ語辞書まで生み出した。これは文化7年(1810)に江戸で出版されたもので、昌高により刊行されたことから『中津辞書』という通称で知られている。長崎生まれのオランダ通詞馬場佐十郎の草稿を、中津藩士神谷弘孝が筆写したものがもとになっており、約7000語余りをいろは順に並べ、天文、地理、時令、数量など19部門に分けて日本語に対してオランダ語の訳語が示されている。もう一つ、ABC順のオランダ語に対して日本語を示した『バスタールド辞書』が続編として、文政5年に刊行されている。二つの辞書の編集と刊行には、昌高の意向が大きく反映されており、昌高のオランダ語への理解が殿様芸を越えた本格的なものであったことを伝えている。



『蘭語訳撰』[村上医家史料館所蔵]

 ところで、中津といえば福沢諭吉が知られるが、諭吉は『福翁自伝』の中で、安政元年に長崎に蘭学を学びに行く当時の中津の蘭学事情について次のように記している。
 それから長崎に出掛けた。ころは安政元年二月、即ち私の年二十一歳(正味十九歳三ヵ月)の時である。その時分には中津の藩地に横文字を読む者がないのみならず、横文字を見たものもなかった。都会の地には洋学というものは百年も前からありながら、中津は田舎のことであるから、原書はさておき、横文字を見たことがなかった。

 13石2人扶持という中津藩の下級武士の家に生まれた諭吉は、「門閥制度は親の敵」という言葉でも知られるように、中津のことをあまりいいようには書いていないが、上の記述では幕末に中津藩では蘭学が廃れ、横文字を見たものもいないようなレベルまで落ち込んでいたように見受けられる。これは一体どういうことであろうか。
 中津市には中津市歴史民俗資料の分館として村上医家歴史史料館があり、寛永17年(1640)に開業し、以後医師として活動し続けた村上家の史料がたくさん残っている。その中には、文政2年つまりは昌高の時代に中津藩医村上玄水の執刀により中津の長浜にて行われた人体解剖の記録「解臓記・解臓図」がある。九州で一番最初の人体解剖であり、近在の医師59名が見守るなかで解剖は行われ、藩の絵師による精密な絵も記録として残されている。考えてみれば、『解体新書』の翻訳で有名な前野良沢は、中津藩医前野家の養子であり、昌高の義理の祖父でやはり蘭学趣味のあった昌鹿の理解のもと、中津藩邸で翻訳作業が進められた。『解体新書』と「解臓記・解臓図」という二つの書物は、藩主のみならず、中津藩全体の蘭学のレベルが極めて高かったことを物語っている。。諭吉は自伝を分かりやすく書くために中津を蘭学不毛の地であるかのように記しているが、蘭学から洋学へと向かった諭吉が中津という土地から生まれたことは、ある意味当然の帰結ともいえるのである。



「解臓記・解臓図」[村上医家史料館所蔵]




村上医家史料館

参考文献
シーボルト著 斎藤信訳『江戸参府紀行』(平凡社東洋文庫87、1967年)
呉秀三『シーボルト先生3 その生涯及び功業』(平凡社東洋文庫117、1968年)
福沢諭吉著 富田正文校訂『新訂福翁自伝』(岩波文庫、1978年)
杉本つとむ編集『早稲田大学蔵資料影印叢書 洋学篇 第一巻』(早稲田大学図書館出版部、1995年)

《次回は3月初旬掲載》


プロフィール:
井上 淳(いのうえ・じゅん)
明治大学大学院博士課程前期修了
愛媛県歴史文化博物館専門学芸員
「幕末期在村蘭方医の医療と社会活動」
(『国立歴史民俗博物館研究報告』116号)
『伊予松山と宇和島街道 街道の日本史』(分担執筆)吉川弘文館