イメージろじ[路知]
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イメージ 連載:宗家文書入門 〜交流の海峡、海の記憶〜 第六回
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イメージ 東 昇
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イメージ「上関と朝鮮通信使」
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1上関へ
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 江戸時代の朝鮮通信使は、ソウルから江戸までの行程を往復した。まずソウルを出発し、釜山から海を渡り、対馬府中へ向かった。そこから対馬藩主をはじめとする対馬藩一行と合流し、壱岐、藍島、下関を通り瀬戸内海に入る。瀬戸内海の各港に停泊し、大坂で上陸、陸路京都をへて東海道を進み、江戸に到達した。対馬から江戸間での日数は、約40〜50日であったという。
 現在の山口県にあたる長州藩領周防、長門には、防長三関と呼ばれる上関、中関、下関3カ所に朝鮮通信使の宿泊、接待所があった。この中で一番東に位置する上関(山口県上関町)を5月中旬に訪れた。博多から新幹線で45分の徳山へ、山陽本線に乗り換え30分弱、江戸時代から商業で栄えた港町柳井に着く。そして柳井から1時間に1本の防長バスに乗り南下する。バスは次第に海岸沿いを走りはじめ、約1時間後、目的地の上関に着いた。博多(当時は筑前藍島)から上関まで、江戸時代には約3日かかったが、今では乗り継ぎをうまく行えば3時間で行くことができる(写真1)
 バス停を降りたところに、名物の「天ぷら」を販売している店があった。天ぷらは、魚のすり身を油で揚げたもので、瀬戸内海の対岸の愛媛でも天ぷら、またはじゃこ天と呼ぶ。ちょうど正午すぎだったので、バス停から少し歩いたところ、昔の街の西端にあたる食堂に入り、この時期の旬、メバルと鯛の煮付けを食べた。静かな港町の細い路地には、猫がたくさんいた(写真2)
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(写真1)上関の港
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(写真2)港を歩く猫
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2通信使の足跡
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 街の西から東へ通信使関係の史跡を巡った。まず饗応役大野毛利家が宿泊した超専寺へ行く。上関は狭い港町なので背後の崖下まで住宅が建ち並んでいるが、急な石段を登ったところに超専寺はあった(写真3)。豊臣秀吉が朝鮮出兵で名護屋へ行く途中立ち寄ったといわれている。崖の中腹に建てられている寺の境内はもともと狭いが、現在は幼稚園を併設しさらに狭く感じた。山門は上関御茶屋の門を移築したものである(写真4)。ここは上関に入港する延享度(1748)通信使の船団を描いた「朝鮮通信使上関来航図」を所蔵している。この門から振り返ると対岸の室津の港がよく見え、よい眺めであった(写真5)
 石段を降りてもとの街並みへ戻り、井桁格子の窓のある江戸期の商家など、江戸から昭和までのおもむきを残す建物が多い(写真6)。次に対馬藩主宗家が宿泊した明関寺跡へ行く(写真7)。現在は旧上関小学校の建物とグランドとなり、当時の石垣や石段だけが残っている。ここも他の住宅より高い位置にあった。明治3年(1870)柳井市の厳休寺に合併し廃寺になった後、上関小学校となった(写真8)
 また降りて街並みを東へ進み、山を少し登ったところに旧上関番所がある(写真9)。入母屋瓦葺きの番所は、もとの場所から移転しているが、上関の通信使関連の建物で唯一の遺構である。上関番所は船の監視や運上銀の徴収等を行った役所で、以前は上関南の四代に置かれていたが、正徳通信使の来聘にあわせて、正徳元年(1711)に上関へ移転した。
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(写真3)超専寺
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(写真4)山門を見上げる
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(写真5)超専寺から対岸の室津を見る
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(写真6)井桁格子の窓のある商家
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(写真7)明関寺跡
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(写真8)旧上関小学校
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(写真9)旧上関番所
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3上関御茶屋とネットワーク
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 この旧上関番所の隣に広がる県立熊毛南高校上関分校のグランドから海岸までの3000坪が、江戸時代の上関御茶屋の跡である(写真10)御茶屋は、御殿、御仮屋とも呼ばれる藩営の施設で、藩主、参勤交代の他藩主、長崎奉行をはじめとする幕府役人、朝鮮通信使、琉球使などの外国使節の接待、宿泊所であった。長州藩は上関御茶屋のほか、中関、地家室(じかむろ)に御茶屋、下関に本陣を設置していた。江戸へ向かった11回の通信使中、往路はすべて上関に宿泊している。長州藩領内であったが支藩の岩国藩を中心に饗応を行なった。広々としたグランドは、通信使の三使(正使、副使、従事官)の宿館となる本御茶屋があった場所である。ここには2階建ての建物があったと、享保4年(1719)通信使の申維翰『海游録』に記される。建物は明治3年に解体され、現在は正門跡、井戸跡、石垣のみ残っている(写真11、12)
 長州藩以外にも、広島藩の三之瀬(みつのせ)御茶屋(呉市蒲刈)、松山藩の津和地(つわじ)御茶屋(松山市津和地)、岡山藩の牛窓(うしまど)御茶屋(瀬戸内市牛窓)など、瀬戸内海沿岸の主な藩は、このような施設を持っていた。上関において詳細な接待記録はないが、隣の寄港地となる津和地御茶屋に勤めた八原家の御用記録『八原家御用日記』には、明和5年(1768)〜弘化4年(1847)年の約80年間にわたり、松山藩の接待記録が記されている。この日記の内容から、各御茶屋間は、藩を越えて密接に連携していたことが分かる。接待の対象である藩主や通信使が通過する際には、まず各地の御茶屋、本陣から通知が届き、その後津和地に来た場合に接待が行われた。その通知とは東は播磨の室津・牛窓・下津井・鞆・蒲刈・鹿老渡(かろうど)、西は沖家室(おきかむろ)・上関・中関・下関からの書状で、瀬戸内海すべての御茶屋間にネットワークが張り巡らされていた。
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(写真10)上関御茶屋跡
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(写真11)御茶屋の井戸跡
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(写真12)御茶屋の井戸跡
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4室津の四階楼(しかいろう)
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 御茶屋跡から街へ出て、海岸沿いを進み上関海峡にかかる上関大橋を歩いて渡る(写真13)。現在も船の往来の多い重要な航路である(写真14)。対岸の港町室津へ行き、明治12年(1880)に建てられた疑洋風木造の四階楼を訪れた。通信使には関係ないが、上関の一番の見所といえる(写真15)。外から見ると4階建ての洋風建築に見えるが、内部は畳敷き、唐獅子牡丹の鏝絵(こてえ)、茶室風の部屋など和風である(写真16)。そして4階の窓は4面ともに、緑赤黄青のステンドグラス、天井には鳳凰の鏝絵と、とても不思議な空間である。ステンドグラスを通してみる町並みは、明治時代にいるような錯覚に陥る(写真17〜19)。この四階楼を建てた人物は、第2奇兵隊の参謀を務めた小方謙九郎、後に回漕業、船宿を営んだ。この四階楼も旅館だったという。天然の良港であった上関は、御茶屋は消えてしまったが、今も江戸から昭和にかけての雰囲気を残している。
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(写真13)上関大橋
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(写真14)上関海峡を進む船
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(写真15)四階楼
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(写真16)唐獅子牡丹の鏝絵(3階)
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(写真17)鳳凰の鏝絵(4階天井)
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(写真18)ステンドグラス(4階窓)
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(写真19)ステンドグラスから見た室津
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