[アーカイブ]いにしえの旅

[アーカイブ]いにしえの旅 : No.17

銅戈鎔笵(どうかようはん)

完全な形、今に伝える逸品
【図1】再利用、再加工の跡がなく、完全な形を今に伝える銅戈鎔笵

【図1】再利用、再加工の跡がなく、完全な形を今に伝える銅戈鎔笵

 長さ五〇・三センチ、幅二〇・二センチ、厚さ一一・八センチ、重さ一九・九キロの細長い石。把手(とって)など持つ部分がついているわけでもなく、大人の男性でも一人で持ち上げるのには一苦労の重さ。しかも、これが国重要文化財かと思うと、ことさら丁寧、慎重に扱おうとするだけにこの重さがいっそう重く感じる。

 戦後の開墾時に、現在の福岡市東区多々良から偶然発見されたというこの石は、弥生時代の北九州地域で盛んに使われた青銅製の武器「銅戈(どうか)」を鋳造した鋳型(鎔笵(ようはん))である。弥生時代の武器形青銅器の鋳型としては最終段階のものであること、そして何といっても完全な形で残っていることから、一九六四(昭和三十九)年五月に国の重要文化財に指定された。

 弥生時代(紀元前四世紀—紀元後三世紀)、朝鮮半島からは稲作農耕文化とともに、それまでの日本列島にはなかった金属器も北九州地域にいち早く到来した。当初、この光り輝く金属器は朝鮮半島からの将来品で希少価値が高く、姿を映す青銅製の鏡のほかに銅剣・銅矛・銅戈といった青銅製の武器が中心であった。

 人々を掌握し米作りや他集団との戦いを統率した特別な立場の人物(王)たちが、自らの権威を高めるため青銅製武器を積極的に保持しようとしたことは、彼らの墓の副葬品としてのみ、それらが出土することから明らかである。

 しかし、やがて国産化が始まり量産化が進むと、武器形青銅器は武器ではなく、五穀豊穣(ほうじょう)などを願ったお祭りに使われる祭器へと徐々に変化していった。このことは、切れる刃が不要になり研ぎ出されなくなったこと、重くて振り回すことができないほど大形化が進んだこと、そして特別な願いを込めたのであろうか、数十本単位にまとめて地中に埋められたまま発見されることなどから知ることができる。

 さて、この細長い鋳型を細かく観察してみよう。両端部の断面には、つい見落としてしまいそうなほど細くて浅い三本の線が、鋳型面からわずかな裾(すそ)広がりで重ねて刻まれていることに気付く【図2】。青銅器の製作工程は、まずその型を彫り込んだ二つの鋳型をピッタリと合わせ、その彫り込み部分(空洞)に高温でドロドロに溶けた銅を流し込む。その銅が冷えて固まったところで型から取り外し、最終的に研磨や細部調整を丁寧に行って完成となる。

 この一連の作業を行うにあたって重要なのは、二つの鋳型の彫り込みが寸分違わずズレないように上手に合わせる工夫である。二つの鋳型を合わせてしまうと内部の様子が見えなくなってしまうだけに、本当にピッタリと合っているのかどうかがわからない。そこであらかじめその位置関係を確認して、両方の鋳型に目印として付けたのがこの細い線「合印(あわせじるし)」なのである【図2】。

【図2】鎔笵の断面部に細く浅く3本の線が刻まれた「合印」(円内)

【図2】鎔笵の断面部に細く浅く3本の線が刻まれた「合印」(円内)

 ところで、鋳型は本来二点一組みのセットとして存在するはずであるが、残念ながらいまだかつてこのセットの鋳型が発掘調査などでも確認されたことがない。というか、正確にはもともとセットであった一組の鋳型がわれわれの目の前にあっても、誰も気付かない場合が多いのかもしれない。

 なぜなら、鋳型の素材としてもっともよく使われる石英長石斑岩というこの石はどうも貴重品だったようで、例えば鋳型が破損して使えなくなると、破損した石を再加工してもとの青銅器より小さな青銅器の鋳型として再利用したりする。また運良く破損しなくとも、目的に応じてその裏面や側面を新たな鋳型面として再加工・再利用したりもする。つまり、鋳型は確実に少しずつ小さくなりながら何度も形を変えていくため、発掘現場でわれわれの目に触れたときは本来の形が分からなくなっているのである。

 ちなみに、中には新たに作られた青銅器を磨き上げる砥石(といし)となるものもあり、揚げ句の果てはその砥石も破損して、鋳型の痕跡などまったく残らないただの小さな石となって注目されずに発掘される、かわいそうな鋳型のなれの果てもある。

 さて、もう一度この鋳型を見てみよう。再加工・再利用の痕跡がまったくない、鋳型としての最初の完全な形を現代に伝える極めて珍しい逸品である。ただ残念なのは片方しかないこと。もちろん、もともとはもう片方の鋳型が存在した。つまり、弥生人たちは二つを合わせて四十キロもの大きくて重い鋳型に、千度を超える高温のドロドロに溶けた銅を流し込んでいたのである。

 当時は、耐熱用の特別な手袋や服はなく、銅を溶かす設備もまだまだ小さく稚拙であった。にもかかわらず彼らは、王の権威の象徴として、五穀豊穣のお祭りの道具として、弥生時代の象徴ともいえる青銅器を作っていたのである。このように、すばらしい文化財の向こうに、大変危険で過酷な作業があったことをわれわれは垣間見ることもできる。

キーワード
弥生時代の青銅器
製作されたときの青銅器は新品の10円玉に近い色。それがさびて青くなるため青銅器と呼ばれる。弥生時代ではまだ貴重だったため、日常的な道具として使われることは少なく、権力者が保持したり特別なお祭りの道具として作られた。九州では武器がそのままに、近畿とその周辺では鐘(銅鐸)が、それぞれ祭祀の道具へと変わっていった。

案内人 水ノ江和同(みずのえ・かずとも)
九州国立博物館展示課技術主査