[アーカイブ]いにしえの旅

[アーカイブ]いにしえの旅 : No.16

殉教三聖人図(じゅんきょうさんせいじんず)

極東の事件、ヨーロッパに衝撃
【図1】3人の日本人イエズス会士が描かれた殉教三聖人図

【図1】3人の日本人イエズス会士が描かれた殉教三聖人図

 黒雲のもと、水面の奥にひろがるなだらかな山並みを背景に、両手を広げ、足首まである長くて黒い衣をまとった男性三人が立っている。しかしよく見ると、彼らは十字架に縛(しば)り付けられ、肩先からは尖(とが)ったものが突き出し、その脇腹からは赤い血が噴出している。それぞれの人物の足元にいる、長い槍(やり)を握り締めて膝(ひざ)丈の着物姿の男たちは死刑執行人であり、三人はまさに絶命しようとしている。

 こうした陰惨な場面にもかかわらず、画面上方からは光の筋が三人の頭部に向かって流れこみ、羽の生えた天使六人が、月桂冠(げっけいかん)と棕櫚(しゅろ)の枝を手に、光に満ちあふれた空中で浮揚している。死を目前にした黒衣の三人は天上の光源を見上げ、歓喜の表情を浮かべつつ、最後の言葉を発している様子である。

 この絵には一五九七(慶長元)年二月五日の朝、長崎・西坂の丘で十字架に磔(はりつけ)され、槍で殺害された、わが国初のキリスト教徒殉教(じゅんきょう)(全部で二十六人だが、本作品には三名の日本人イエズス会士のみ)の場面が描かれているのである。

 キリスト教が日本に伝来したのは、イエズス会の東方伝道者フランシスコ・ザビエル(一五〇六―五二年)が鹿児島に上陸した一五四九(天文十八)年八月十五日のことである。ザビエル来航当初より、わが国におけるキリスト教布教は、ポルトガル王の保護下にあったイエズス会に委ねられていた。しかし、マニラに東南アジアの拠点を設けたスペイン王は、八四年以降、その保護下にあったフランシスコ会士を布教のためにわが国に送り込んだことで、イエズス会との間に緊張が高まっていた。

 そうしたなか、一五九六年十月に起きたスペインのサンフェリペ号事件をきっかけに、十二月に秀吉は再び禁教令を発し、京都に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員の捕縛(ほばく)を石田三成に命じた。最終的に二十四人が捕らえられ、京都、堺、大坂の市中引き回しの後、長崎まで徒歩で送られた。途中二人の信徒が自らの意思で加わったため、総勢二十六人となった。彼らは、翌年二月五日の朝、長崎に到着し、西坂の丘で十字架に縛り付けられ、槍で殺害された。事件の詳細については、直接・間接に目撃したヨーロッパ人宣教師(なかでも『日本史』の著者ルイス・フロイスが有名)によって、ヨーロッパ社会へ報告され、極東における宣教にかかわる衝撃的な事件として、処刑直後から広く知られるようになった。事実、版画や本の挿図を中心に多くの作品が生み出された。

 本作品は、キャンバス(麻布)ではなく上下につないだ三枚のナラ材の板に、茶色のきわめて薄い下地を準備し、その上から人物などを、絵の具を盛り上げるようにして描いている。陰影表現や天使の表情などの特徴からみて、十七世紀中ごろのスペインで制作されたものと考えられる。ナラ材は十七世紀中ごろまでフランドル(現ベルギー北部)やオランダで好まれていたが、カトリック圏に属するフランドルがスペインのフェリペ二世の領土の一部であったことから、材料だけがスペインにもたらされた可能性が高い。本作品の画家自身処刑を目撃していたとは考えられないため、先行する版画などを参考に描いたものと思われる。死刑執行人のいささか奇妙な髪形も、ちょんまげをよく理解できないまま描いたと考えると納得がいくであろう。

【図2】長崎市西坂町にある二十六聖人の記念碑(執筆者とともに)

【図2】長崎市西坂町にある二十六聖人の記念碑(執筆者とともに)

 油絵本体より新しいとみられる木製の額縁上縁には「イエズス会士として一五九七年二月五日に磔にされた三人の日本人」、下縁には「聖パウルス三木 三十三歳、聖ヤコブス喜斎 六十四歳、聖ヨハネス五島 十九歳」という内容の銘文が、古いオランダ語で記されている。フランシスコ会・イエズス会の区別なく、殉教した二十六人全員が一六二七年二月十四日、教皇ウルバヌス八世により福者とされ、一八六二年六月八日に教皇ピウス九世によって聖人の称号を与えられている。一九六二年には、列聖百年を記念して西坂の丘に日本二十六聖人記念館とカトリック教徒だった彫刻家、舟越保武氏(一九一二―二〇〇二年)による記念碑が建てられている。

 十六世紀末期に九州・長崎の地で起きた事件からわずか数十年後に、ヨーロッパ・スペインで絵画化された本作品は、わが国とキリスト教の歴史的なかかわりを如実に示す重要な証人といえる。宗教に対する迫害、あるいは寛容の精神を考えるきっかけとしてほしい。

キーワード
イエズス会
16世紀に、イグナティウス・デ・ロヨラを会長に、ザビエルらによってパリで創立された、カトリック教会に属する男子修道会。「より大いなる神の栄光のために」をモットーに、積極的にアジアやアフリカなどの非ヨーロッパ世界へ宣教した。

サンフェリペ号事件
台風のため土佐の浦戸湾に漂着したスペイン船の積み荷没収と乗組員拘留が行われた際、スペイン国王による宣教師派遣には領土征服の意図が含まれているという趣旨の水先案内人の発言が生まれたという。その結果、秀吉によるフランシスコ会士捕縛の命令が出され、長崎二十六聖人殉教が引き起こされたとされる。

案内人 臺信祐爾(だいのぶ・ゆうじ)
九州国立博物館学芸部文化財課長