[アーカイブ]いにしえの旅

[アーカイブ]いにしえの旅 : No.14

喜界島(きかいじま)の古琉球辞令書(こりゅうきゅうじれいしょ)

琉球王国の支配明らかに
【図1】(A)1603年の古琉球辞令書

【図1】(A)1603年の古琉球辞令書

【図2】(B)1606年の古琉球辞令書

【図2】(B)1606年の古琉球辞令書

 二〇〇五(平成十七)年三月上旬、喜界島(きかいじま)(鹿児島県)を初めて訪れた。九州国立博物館に収蔵される予定の新資料「古琉球辞令書(こりゅうきゅうじれいしょ)」の舞台である。シンポジウム「古代・中世のキカイガシマ」で報告するためにやってきたのだが、目的の半分以上は現地調査にあった。この文書に書かれた地名はどんなところか、伝来してきた家はいったいどんな家なのか?今回の「いにしえの旅」では、この辞令書を手がかりに、皆さんを南の島へと誘ってみたい。

 「古琉球辞令書」とは、古琉球時代(島津氏の琉球侵略=一六〇九年=以前)、琉球王国が各地の役人に出した任命書のことを指す。本文を仮名書き、年号を中国年号(漢字)で記す点は、和漢折衷、中国と日本のはざまに国家を形成した琉球ならではの特徴といえる。先の大戦で甚大な被害を被(こうむ)った沖縄は、文化財の遺(のこ)りが極めて悪い。編纂史料(二次資料)を除くと、辞令書は、最も生で貴重な古琉球時代の一次資料である。

 さて、くだんの古琉球辞令書は、とにかくセンセイショナルな登場の仕方をした。二〇〇三年、古琉球辞令書としては十数年ぶりにオークションに売りに出されたからである。しかも、これまで一度も存在の知られていなかった辞令書である。運良く、文化庁が購入、九州国立博物館に収蔵される運びとなった。また、この辞令書の発見により、現存する辞令書は奄美諸島関係で十三通、沖縄県下で十五通を数えることとなった。

 この喜界島あて辞令書は二通あり(以下(A)・(B)と表記)、現在一巻に成巻されている。(A)一六〇三(万暦三一)年一〇月一七日、鬼界島荒木間切(まぎり)某目差(めざし)辞令書【図1】、(B)一六〇六(万暦三十四)年一一月二八日、鬼界島荒木間切手久津久大屋子(てくつくうふやこ)辞令書【図2】。紙面の都合で、後者(B)のみ書き起こしておこう。

志(し)よ里(り)の御ミ事
きゝやのあらきまきりの
てくつくの大やこハ
一人あらきめさしに
たまわり申候
志(し)よ里(り)よりあらきめさしの方へまいる
萬暦三十四年十一月廿八日
※しより=しゅり(首里、首里王府)のこと。

 辞令書の冒頭と年号の上に朱文方印の琉球国王印「首里之印」を捺(お)す。明らかに本物で、琉球国王から出された正真正銘の辞令書と分かる。そして、中世の喜界島が、琉球王国の支配を受けていたことも、これではっきり裏付けられる。

 内容は、辞令書(A)、手久津久の掟(うっち)(村落(シマ)の長)を荒木間切の□□□(「あらき」ヵ=沖縄の高良倉吉氏、奄美大島の弓削政己氏の論考による)目差(間切の庶務管理者)に任命する。辞令書(B)、荒木目差を手久津久の大屋子(間切の責任者)に任命する、というものであり、喜界島のある人物の、「手久津久掟→荒木目差→手久津久大屋子(大役)」という昇任プロセスが読み取れる。それでは、その人物とは誰で、そもそもこの文書はどこの家に伝わったものだろうか? 当然この点が問題となる。  奄美に残る既知の著名な系図、「勘樽金(かんたるかね)一流系図」(喜界町先内(さきうち)の永(ながい)家の系図)には、このころ「荒木大役」職が頻出し、近世奄美史の研究成果によると初期の役人はおおむね世襲性であったともいうから、この永家ないしその傍流こそ、問題の辞令書(A)(B)を受け取った家ではなかったか?

 豈(あ)に図らんや、もう一本の「勘樽金一流」系譜が存在したのである。喜界島の折田馨氏のご教示によると、喜界島白水の勝連(かつれん)家(現在は島外にお住まいと聞く)に「白水勝原一統」系図があり、一六〇六年ごろ、勘樽金の子、金多羅(きんたら)が手久津久大役に任じたというのだ(竹内譲氏の論著による)。これは間違いなく辞令書(B)の内容と一致する。系図の現物自体は残念ながらまだ世に出ていないが、この系図を有する勝連家に辞令書(A)(B)が伝わったことはほぼ疑いない。なお、辞令書(A)(B)とともに売りに出された近世薩摩藩時代の「知行目録」他一巻には、喜界島の大阿母(おおあむ)職(ノロ=女性の神職=の統括者)の継承をめぐり、明らかに勝連家に有利な内容の文書が含まれていた(こちらも九州国博に収蔵)。自家に有利な文書が残りやすい、という原則に照らせば、やはりこの勝連家こそ、辞令書(A)(B)を含む一連の「権利証文」を伝えた家だったのであろう。

 こうして、現地に行って歩き、その土地の方々からいろいろと教えていただいたおかげで、さまざまなことが分かった。そして、この辞令書を通じ、喜界島、奄美、沖縄とのつながりができたことは何よりうれしい。南島・沖縄にも熱い視線を向ける九州国立博物館にとって、大きな財産である。

【図3】手久津久の港を望む

【図3】手久津久の港を望む

【図4】喜界町にある旧勝連家の跡

【図4】喜界町にある旧勝連家の跡

キーワード
古代・中世のキカイガシマ
キカイガシマ(キカイジマ)は、古代には現在の硫黄島を指したり、周辺の薩南諸島から奄美諸島一帯を漠然と指すこともあり、「貴賀島」などと書かれた。螺鈿(らでん)に用いる夜光貝や火薬の原料の硫黄など、貴重な南方物資をもたらす拠点であったことが、「貴」の字の由来とされる(永山修一氏の説による)。中世から「鬼界島」の表記が一般化し、明確に現在の喜界島を指すようになる。鎌倉時代に入り、北条得宗被官や島津氏の領地とされたが、室町時代、他の奄美群島ともども琉球王国の支配下に入った。古琉球辞令書はこの時代に発給されたものである。1609年、島津氏の琉球侵攻により奄美以北は薩摩藩の支配を受けるようになり、以後、首里王府から辞令書を交付されることもなくなった。

案内人 橋本雄(はしもと・ゆう)
九州国立博物館学芸部企画課文化交流展室研究員