[アーカイブ]いにしえの旅

[アーカイブ]いにしえの旅 : No.06

唐三彩女子俑(とうさんさいじょしよう)

華やかな唐文化 女性のおしゃれ映すて
【図1】唐三彩女子俑

【図1】唐三彩女子俑

 唐の時代のある新婚家庭。夜が明けたら夫の両親のもとを訪ねるというので、妻は身支度に余念がなかった。化粧もして準備万全、と思いきや、妻はあることが不安でならず、夫にそっと尋ねて言うのであった。「わたくしの眉(まゆ)の引き方は今の流行に合っていますでしょうか」と。

 これは唐の詩人朱慶余の詠んだ詩にでてくる話。妻は、自分の描いた眉毛が時代の波に乗っているかが何にもまして心配だったのである。

 この詩は科挙の試験を控えた朱慶余が、自分を推薦してくれている友人張籍にあてた詩であったといわれる。自分の書く文章が時勢に合っているかどうかが不安であった朱慶余は、自分を妻に、張籍を夫に、科挙の試験官を夫の両親になぞらえて、その不安な気持ちを、詩に出てくる妻の不安さに託して詠んだのだ。したがって、詩文の情景は朱慶余が創作したものといえるけれども、当時、化粧の仕方に流行があって、眉の引き方がひとつのポイントになっていたことがうかがえるのである。

 唐代のことを記した文献には、化粧や服装、髪形などにまつわる記述が随所にみられる。三百年ほど続いた唐王朝で、女性たちは時事折々の流行を追い求めていったのである。それでは、どのような美意識があって、どのような流行があったのだろうか。それを具体的に教えてくれるのが、壁画や女子像などの資料である。

 九州国立博物館に収蔵される【図1】は唐文化の代名詞ともいえる唐三彩の女子俑である。これは典型的な盛唐期の作に特有のふくよかで健康的な体格と、ゆったりとした着衣の表現がみられ、印象的である。

 ところで、中国には古く細身の体をよしとする考え方があったようだ。『墨子』や『韓非子』といった書物には、戦国時代楚国の霊王の好みが記されている。霊王が好んだのは細腰の人間であった。そのため霊王に仕えるものたちは食事制限をして、人為的に体をやせさせていたという。また、服を着るときはエイヤッとおなかを引っ込めて腰帯を結び、体形をやせ形にして着飾った。なかには過度の食事制限によって餓死するものもあったという。これはすこし極端な例ではあるけれども、その後の漢代や隋代になっても、好まれていたのは細い体つきや均整のとれた体格であった。隋代の女子俑や壁画にあらわされた女官などを見てみると、いずれも腰がくびれていて、着衣は腰のラインをみせるようにあつらえられている。顔立ちはやや面長であったり、卵形であったりするものが多い。このような細身の体つきからは、どこか閉鎖的で、緊張感のある気風も感じられる。

 ところが、八世紀にはいって唐王朝も安定してくるころ、首すじに肉ジワのあるような女性が登場してくる。それにつられるように、体形もふっくらし始め着衣も束縛感のないゆったりとしたものへと変わっていく。髪形はボリューム感のあるスタイルが好まれるようになった。全体として、豊満な女性が時代の主流となっているのである。【図1】のような女子俑は、まさに豊満スタイルが好まれた時代の姿をうつしている。もう少し時期が下ると、さらに豊満さを増した女性像も作られる。このようなふくよかで健康的な体つきからは、どこか開放的な気風が感じられるのである。

 開放的な気風は、服装や化粧からもうかがうことができる。中央アジアなど西域との交流が活発化してくると、さまざまな西域風の服装が人気を集めるようになり、女性たちはこぞってこれを求めた。西域の服装を胡服(こふく)というけれども、女性たちは大きな襟のついた胡服を身にまとい、馬に乗り、ポロのような競技に興じたりした。化粧では、額やほおに花びらのような模様をあしらうこともあった。これなども、シルクロードを経て中央アジアなどから伝わってきたものである。一方で、男装することもはやっていたというから驚きだ。このような胡服や男装、乗馬などの流行は、開放的な気風に後押しされた、唐代女性の自由で活動的な一面を示しているといえるだろう。

 唐という時代に対して、華やかなイメージをもっている人は多い。そのイメージを底辺から支えてくれているのは、最先端の美を追いかけてやまなかった唐の女性たちなのかもしれない。

キーワード
朱慶余の詩

近試上張水部
洞房昨夜停紅燭
待暁堂前拝舅姑
妝罷低聲問夫壻
畫眉深浅入時無

試(し)に近づき張水部に上(たてまつ)る
洞房 昨夜 紅燭(こうしょく)を停(とど)む
暁(あかつき)を待って 常前(どうぜん) 舅姑(きゅうこ)を拝せんとす
妝(よそおい)罷(や)んで 低聲(ていせい)に夫壻(ふせい)に問う
眉(まゆ)を畫(えが)く深浅(しんせん) 時(とき)に入るや無(いな)や
目加田誠訳注「唐詩三百首」(平凡社)より


副葬することを目的に作られた人物像を俑という。多くは亡くなった人物が生前にかかわりのあった文官や武官、兵士や従者などをかたどっている。当時の風俗や制度を知るうえで貴重な資料。

案内人 市元塁(いちもと・るい)
九州国立博物館学芸部企画課特別展室研究員