大宰府条坊跡(朱雀門礎石)

古代の大宰府は、政庁を中心に、その周辺に官衙域、そして東側に学校院、観世音寺を配し、政庁を北辺の中心として、約2km四方にわたって方形のプランを呈する条坊制をしいていたと考えられます。条坊制とは、中国・朝鮮半島の王城都市に見られる都市プランで、南北中央に朱雀大路を配し、そして南北の大路(条)と東西の大路(坊)を碁盤の目状に組み合わせて左右対称で方形に都市のプランを形成するものです。
大宰府は、『続日本紀』神護景雲3年(769年)10月甲辰の条にも「天下之一都会也」と称されるほどの大都市であったと考えられ、古くより南北22条、東西24坊の規模が推定されていました。実際の発掘調査においても、条坊制を証明するような道路の遺構が太宰府市と筑紫野市にまたがって約20箇所以上で検出されています。
それらの発掘調査の結果、推定朱雀大路(政庁中軸線上に伸びる南北2kmのメインストリート)は、路面幅約35〜36m、それ以外の道路は路面幅約3mで、朱雀大路をはじめとする右郭に位置するいくつかの南北の道路は8世紀代に成立し、その後、縮小を続けながらも11世紀後半ごろまで掘り替えられていました。その一方で、その他の道路の多くは、10世紀後半、すなわち藤原純友の乱の後、大宰府政庁Ⅲ期の建物が築造された時期とほぼ同時期に造営され、11世紀後半から12世紀前半に廃絶したことがわかりました。大宰府政庁の成立当時から条坊の完全な姿が存在したわけではないようです。
大宰府の条坊制については、いまだ全容が確認されていない大規模な遺跡です。詳細な全容については、今後の調査の成果に委ねられています。
(太宰府市『太宰府市史 考古資料編』ほかより)

写真

条坊の道路遺構(大宰府条坊第222次調査・写真提供:太宰府市教育委員会)