学校院跡

大宰府政庁跡の東側、観世音寺との間に挟まれた一帯は、現在、多くが水田となっていますが、この地域は、小字が「学業」といい、古代大宰府に附属する学校院の跡地に比定されています。

写真

学校院跡


学校院の歴史

古代、学校院は「府の学校」と呼ばれ、大宰府管内九国二島の国司の子弟教育を目的として設置されたもので、中央政府の「大学」にあたるものでした。「府学校」には、明経博士・音博士・明法博士が置かれ、天応元年(781年)の官符には、「管内六国の学生・医生・算生二百余人」とあり、かなりの活況を呈していたようです。
その正確な位置は、未だ確認されていませんが、政庁と観世音寺の間の方二町がその区域と推定されています。 また、発掘調査が始まる以前から、他の地域に比べて文様せんが多く出土しています。正方形・長方形・三角形のものが見られ、学校院の特徴の一つともされています。
(太宰府市『太宰府市史 考古資料編』より)

写真

学校院跡出土長方形文様せん

写真

学校院跡出土三角文様せん


学校院の発掘調査の成果

学校院地区では、これまでに14回にわたる発掘調査が行われ、全容の解明までには至っていませんが、いくつか重要な発見がなされています。観世音寺との境界にあたる東辺部地域では、11世紀に行われた観世音寺と学校院との境界を巡る相論を示唆する南北方向の築地状の遺構と大溝が検出されており、その西側では、奈良時代後半(8世紀後半)以降の掘立柱建物7棟も検出されています。
また、中央部と推定される箇所では、掘立柱建物4棟が確認されています。特にこの箇所の建物は、中心的な地域に当たることと、廂を持つ建物であることなどから、学校院の中でも中心的な位置を占めていると考えられています。
(太宰府市『太宰府市史 考古資料編』より)

写真

学校院地区の掘立柱建物(大宰府史跡第37次調査)(写真提供:九州歴史資料館)

写真

学校院と観世音寺を区画する築地跡(右が学校院、左が観世音寺)(写真提供:九州歴史資料館)


平安時代末の木棺墓

学校院地区の南側には、平安時代末(12世紀後半)ころの木棺墓群が検出されています。それらは火葬されずに遺体を木棺に納めて、そのまま土中に埋葬されたもので、中には、人骨、副葬品、棺材が良好な状態で保存されているものもありました。
木棺墓SX863は、長さ約2m余り、幅1.5m足らずの隅丸長方形の墓坑を掘り、その中に長さ1.5m余り、幅0.5m余りの木棺が納められ、その中に、北枕で足をわずかに曲げられた成人男性骨1体と、鉄刀、銅銭各1が、そして棺の上には白磁碗、瓦器、土師器坏が納められていました。
古代大宰府の官衙の一つである学校院に、墓が築かれるようになった平安時代末には、おそらく学校院も、官衙すなわち府の学校としての機能が停止してしまっていたのではないかと考えられています。
(太宰府市『太宰府市史 考古資料編』より)

写真

木棺墓SX863(大宰府史跡第38次調査)(写真提供:九州歴史資料館)


観世音寺子院・学業寺跡

学校院地区の南東部からは、鎌倉時代末(14世紀初頭)とされる3間×3間の瓦葺礎石建物1棟が見つかっています。周囲に溝を配し、建物の平面形はほぼ正方形を呈しています。また、建物周辺からは型づくりの地蔵菩薩像3体が出土しており、推定金光寺跡の三間堂と同じく、寺院の三間堂である可能性が考えられています。
学校院地区の小字「学業」には、中世、観世音寺49子院の一つ学業寺があったと推定されており、おそらくこの建物は学業寺にあたると考えられます。
(太宰府市『太宰府市史 考古資料編』より)

写真

推定学業寺跡の礎石建物(大宰府史跡第38次調査)(写真提供:九州歴史資料館)